――わたしの声、聞こえてるかな。

 全ての始まりは、誰にも聞こえないはずの声だった。
 男は祭の喧騒に背を向け、早足に歩みながらその時のことを克明に思い出していた。
 どこからともなく聞こえてくる声の正体は、男も初めから了解している。ただ、それを語ったとしても誰にも信じてもらえないどころか、頭が狂っている、気が触れていると言われてもおかしくないだろう。
 だから、男は「彼女」との関係を決して語らないし、「彼女」も語らないはずだ。
 だから、男はこの事件の真実を語ろうとはしないし、同じように真実を知る「彼女」の口から語らせる気もない。
 自分は「彼女」を拐かした犯人で、追われるべくして神殿に追われている。
 これでいいのだ。「彼女」のためには、これでいい。
 ――ごめんね。わたし、あなたを悪役にしてるね。
 そんな彼の思考に気づいたのか、「彼女」が少しだけ落ち込んだ声を投げかけてくる。男はくく、と喉だけを鳴らす笑い方で笑うと、目を閉じる。
 ――悪役には慣れてる。ただ、悪役をやるならば、フェーダ・シュリュッセルの描く怪盗のような、スマートな悪役でありたいけれど。
 男が声なき声で返すと、「彼女」は無邪気に笑ったようだった。そんな「彼女」の反応を不思議に思ったのか、横から男の知らない少年の声が聞こえてきて、男も少しだけ愉快な気分になる。
 こんなに楽しそうな声で笑う「彼女」を見るのは男も初めてだった。ずっと「彼女」のことを知っているつもりでいた男だったが、実際に会ったのはこれが初めてなのだ、やはり実際に行動し、自らの目と耳で確かめてみないことには、何一つとして本当のところは見えてこないのかもしれない。
 自嘲と自戒も込めて、強く思う。
 ここにはいない「彼女」が少しだけ不安を込めて男の名を呼ぶ。男は何でもない、と返して知らず俯きがちになっていた顔を上げ、閉じていた目を開く。もう、祭に沸く人々の声も、聖ライラを湛える歌も聞こえてはこない。青い薔薇の飾りすら無い街のはずれで、男は立ち止まる。
 すると、背後から聞こえてきた規則正しい足音も止まった。
 そして、背中に投げかけられる、声。頭の中に響く声とはまた違う、弦を弓で弾いたような、張り詰めた、しかし美しい響きの声が男の鼓膜を震わせる。
「逃げる気は無いようだな、誘拐犯」
 小さく頷き、黒い外套の裾を捌いて振り向く。
 そこに立っていたのは、一人の女騎士だった。
 長く伸ばした金色の髪を頭の上で縛り、淡い紅の薔薇飾りで飾っている。同じ色の服の上には、女神ユーリスを表す十字を刻んだ白い鎧。それこそが、女神ユーリスに命を捧げた神聖騎士のみ身に着けることを許された、聖別の鎧だ。
 男にとっては、この数日ですっかり見慣れてしまった鎧でもあるが。
 騎士はゆっくりと男に向かって歩み寄りながら、真っ直ぐな瞳で男をじっと観察している。男は唇に浮かべたままだった笑みを余計に深くして、少しだけ俯く。
「誘拐犯であることを、否定はしないのか」
 騎士の言葉に、男は笑顔のまま軽く肩を竦めてみせた。その仕草に少しだけ騎士は眉を寄せたが……どうしてそんな表情をするのかは、男にもわからなかった……すぐに表情を戻すと硬い声で言う。
「『知恵の姫巫女』を拐かした罪は、重い。それに、貴様の存在自体も神殿は看過できない」
 もう一度、「彼女」が頭の中で男の名を呼ぶ。
 男はそれには応えぬまま、目の前の騎士に意識の全てを集中させる。
 男が笑んだまま何も言わないと見るや、騎士は大きく踏み込んで右腕を跳ね上げた。男は全てを見据えた上で、己の右腕を外套の中に差込み、引き抜く。
 白銀と、黒鉄が、交錯する。