少年と蝶

 そしてまた、青い夢を見る。
 銀色のアゲハ蝶が舞う、青い薔薇の花畑に立ち尽くす、そんな夢。
 胸がぎゅっと締め付けられる。これは、嬉しいのだろうか、それとも悲しいのだろうか。理由もわからないというのに、涙がこぼれそうになる。
 けれど、何故だろう。
 この場所に立っているのが、自分ではないような気がして……気づけば、セイルはいつもと何も変わらぬ、自分のベッドの上にいた。時計を見れば、今日は何とか朝食の時間に間に合いそうだったから、あわてて着替えて階下の食堂に向かう。
「おや、おはよう、セイル」
「おはようございます、リムリカさん」
 寮の管理人であるリムリカは、大きな鍋を抱えて丸っこい顔を笑みにする。
「今日はお前さんが一番乗りだよ。と言っても、ほとんどの子は実家に帰っちゃってるからねえ」
「あ、そっかあ」
 見れば、いつもは我先にとリムリカの料理を求めて殺到しているはずの寮生たちの姿はなかった。まあ、それはそれでリムリカの料理が食べ放題という意味でもあるからセイルにとっては大歓迎だ。長らくこの小さな寮で食べ盛りの少年たちに料理を振舞ってきたリムリカの腕は、確かなのだから。
 温かなポタージュとふわふわの手作りパンを貰いながら、セイルはリムリカに問う。
「そうだ、起きたらクラエスがいなかったんだけど、リムリカさん、知ってる?」
「クラエスなら朝ごはんの前に出て行ったよ。何でも、楽団の練習があるんだって」
 クラエスは学校の生徒によって結成されている楽団の一員だ。そして、聖ライラ祭七日目、最終日の発表に向けて練習をしなくてはならないのだ、ということをセイルも今更ながらに思い出していた。昨日も聞いたはずだったのに、すっかりそれを失念していた。
 それじゃあ、今日は一緒に回れないのか、とセイルは少し残念に思う。とはいえ、楽団の練習では仕方ない。最終日には絶対にクラエスの演奏を聞くんだ、と思いながらセイルはパンを口いっぱいに頬張る。焼きたてのパンは香ばしく、微かな甘みが口の中に広がる。
 毎日食べている味ではあるけれど、セイルはリムリカが焼いてくれるパンだけで暮らしていける自信がある。皿の上のパンはすぐにセイルの腹の中に収まってしまった。「相変わらずいい食べっぷりだねえ」とリムリカが嬉しそうに顔をほころばせて、まだ食べられるだろうとパンを一つ皿の上に追加してくれた。今度はまだ少しだけ残っていたポタージュと一緒にパンをじっくり噛み締めることにした。
「そういえば、セイルは昨日お祭には行ったのかい? ライラ祭は初めてだろう」
「うん。すっごいんだな、リベルのライラ祭って! こんな賑やかな祭、初めてだよ」
 そうかいそうかい、とリムリカは自分のことのように嬉しそうに笑う。リベルの住人は、聖ライラと彼女を祝う祭に誇りを持っているのだ。セイルも昨日一日を過ごして、少しだけそれがわかった気がした。
「今日も行くのかい?」
「そのつもり。誰か捕まればいいんだけど……」
「この人じゃあ難しいかもね。まあ、気をつけるんだよ」
 うん、と笑顔で頷いて、残りのパンをきちんと胃に収めて。ポタージュの皿も実際に舐めたわけではないけれど、舐めたように綺麗にして席を立つ。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 リムリカの声を背中に聞きながら、セイルは寮を飛び出す。ポーチの中に入っているお金はそんなに多くないけれど、街を見ているだけでも一日が過ぎてしまう。昨日だって、結局街の半分も見て回っていないのだ。
 今日は忘れずに持ってきたマフラーをしっかり首に巻きなおし、貰った祭の地図を見る。今日は東地区で仮装パレードがあるのだという。昨日はそちらまで足を運べなかったし、とセイルはそちらに向けて駆け出した。
 今日もよく晴れていて、風は冷たい。天気予報ではライラ祭の終わりくらいに少しだけ雲行きが怪しくなると言っていたけれど、それまでは晴れが続くと言っていた。きっと女神様がこの日のために、リベルを晴れにしてくれたに違いない。実際に、毎年ライラ祭の間は毎年ほとんどが晴れなのだと、昨日クラエスが教えてくれた。
 セイルは人の邪魔にならない程度に小走りに駆けながら、青い空を見上げる。雲一つない空には、色とりどりの船が飛ぶ。決して普段船の行き来が多くないはずの空に舞うのは、この時期だけに出る、臨時船だ。ライラ祭のためにやってくる人を乗せて、楽園のあちこちからやってきているに違いない。それを思うだけで、セイルの心は浮き立つようだった。
 いつもの、学校に通う日々と同じ道を走っているのに何もかもが違う。その事実を改めて感じずにはいられないのだ。
 あちらこちらから、人を呼ぶ声が聞こえる。ここにはどんな店が出ているのだろう、とセイルが空から町並みに目を落とそうとしたその時。
 視界の端に、何かが煌いた。
 はっとしてそちらを見ると、銀色の何かがセイルの横を行き過ぎていくところだった。よく見れば……それは、銀色に輝くアゲハ蝶。今度こそ見間違いなどではない、確かに冬の冷たい風の中、薄い羽を羽ばたかせ、ふわふわと人ごみの中を飛んでいたのだ。
『銀色のアゲハ蝶? それこそありえないよ。青い薔薇と同じで、今こんなところで見られるはずもないじゃないか』
 クラエスの声が頭の中に蘇る。そうだ、銀色のアゲハ蝶など「ありえない」。それは伝説の中の存在でしかない。聖ライラがこの地で魔王を倒したその日に、この世から消えたもののはずではないか。
 何しろ、銀色の蝶は魔王イリヤの象徴。魔王が連れていた僕であるとされているのだから。
 そんな、不吉な蝶がこんな場所を飛んでいるはずもない、そう思って目をこすってみるもアゲハ蝶の姿は消えない。だが、他の誰も蝶の存在には気づいていないようで、銀色の蝶は人ごみの中にまぎれて見えなくなりそうになる。
 セイルは、思わずそちらに向かって足を出していた。自分の見ているものが、見間違いでないことを最後まで確かめようとも思ったし……それに、不意に思い出したのだ。今日見ていた青い薔薇の夢にも、同じ蝶の姿を見た、と。
 幾重にも積み重なった不思議が、セイルの背中を押した。
 不吉さとか、恐怖とか、そんな感情は不思議と無かった。ただ、セイルの中にふつふつと湧き上がるのは、純然たる好奇心。
 蝶はひらひらと、セイルの足と同じくらいの速さで飛んでいく。見失わないようにと人ごみの中に目を凝らしながら走っていると、時々人の足を踏んでしまうこともあって、その度に頭を下げて謝る羽目になった。
 そんな風にして、どのくらい走っただろう。蝶はちょうどセイルが向かおうとしていた東地区へと向かっているようだった。ただ、目当てのパレードの場所からは少しだけ離れた、人気の少ない路地に入っていってしまい、セイルもそれを追って細い路地に飛び込んだ。
 家と家の隙間、といった風情の道だったが、建物が光をさえぎっている代わりにそこかしこに飾られた青い薔薇飾りが淡い魔法の光を放っていて、とても不思議な光景だった。大通りの人ごみを避けているのだろう、談笑しながらゆっくりと行過ぎる人の姿が、祭のもう一つの顔のようでセイルには新鮮に映る。
 そんな中を、銀色の蝶は誰にも見咎められることなく先ほどよりもはるかにゆったりとした速度で飛んでいく。セイルもその速度にあわせて、歩を緩める。
「どこに、行くの?」
 セイルは口の中で問うてみるが、アゲハ蝶は返事をしない。
 その代わり、というわけでもなかったのだろうが、蝶は、すうと伸ばされた白い指にとまり、銀色の羽を休ませた。セイルは足を止めて、呆然とそれを見つめていた。
 蝶を指にとまらせたのは、道の端に積んだ荷物の上に座っていた、一人の少女だった。
 ベージュ色をしたコートに身を包んだ少女は、銀色の蝶をしばし不思議そうに見つめた後、不意にこちらに視線を向けてきた。
 その瞳の色は、辺りを満たしている薔薇の色と同じ、透き通った青色をしていた。
「こんにちは。いいお祭日和ね」
 少女は小さく微笑んだ。セイルも「こんちわ」と慌てて頭を下げて、それから改めて顔を上げて少女を見た。年は自分より上……見立てが正しければ、クラエスと同じくらいだろうが、セイルと同じ学校の生徒という感じでもない。きっと、外から来た観光客なのだろう。
 けれど……
「こんなところで、何してるの?」
 セイルは、思ったことをすぐに問いにした。少女は長いコートから突き出た細い足をぶらつかせて笑顔で答える。
「少し疲れちゃったから、休んでたの。あなたは?」
「俺は、珍しい蝶々がいるな、って思って追いかけてきたんだけど……」
「珍しいよね。イリヤの蝶なんて、わたしもとっくに滅びたと思ってた」
 少女が自分の指にとまった蝶に視線を戻すと、蝶はふわりと飛び立ち、青い空へと飛び立っていき、やがて建物の影へと消えて見えなくなった。セイルは一瞬追いかけるべきかとも考えたけれど、何故かその場から一歩も動けないままに、消えていく蝶を見送るだけ。
 少女はしばし黙り込んで蝶が消えた空を見上げていたが、ぽつり、と。唐突に言葉を落とす。
「そっか。あの子に聞けば、青い薔薇の場所もわかったのかな」
「え?」
 いきなり少女の口から「青い薔薇」なんて言葉が放たれたものだから、セイルは驚いてしまった。少女は何故セイルが驚くのかわからなかったのか、小さく首を傾げる。
「どうしたの?」
「青い薔薇って、ここに咲いているのじゃなくて?」
 セイルは、辺りに咲く作り物の薔薇を指すけれど、少女は首を横に振った。
「ううん。わたしが探しているのは、本物の青い薔薇。遠い昔、聖女ライラの手の中にあった、青い色した薔薇の花」
 セイルの頭の中に、反射的に今朝も見た夢が鮮やかに蘇る。「そんなの、」
「ありえないって思うかな。けどね、本当はまだ咲いてるはずなの。この街のどこか、誰も知らない場所に。だからわたし、ここに来たんだ」
 少女の言葉は、まるで歌のようだった。誰も知らない歌を口ずさむように喋る少女から、セイルは目を離すことが出来なかった。ここにいるのに、少女の瞳は全く別の場所を見ているようにも、見えたのだ。
 そう思っていると、その瞳が、まじまじとセイルの顔を覗き込んでくる。
「その、ごめんね。いきなりこんなこと言われても、困っちゃうよね」
 一瞬吃驚したセイルだったが、すぐに首をぶんぶんと大きく横に振った。別に、少女が言っていることが、変なことだとも思わなかったし困ったわけでもない。吃驚した、それ以上でもそれ以下でもない。
「ううん、もし、咲いてるなら俺も見てみたいな」
 少女の歌うような声を聞いていると、それだけで、夢で見た青い薔薇の風景がはっきりとした輪郭を帯びてくるようであった。あの夢は、ただの夢なんかじゃない。本当に存在する場所を幻視してしたのではないかと、少女の言葉を聞いているうちに思ってしまったのだ。
 それこそ、夢のような話だと、頭ではわかっているのに。
 少女の言葉にはそれを信じさせてしまうだけの不思議な力が篭っているようだった。
「わたし、変じゃないかな?」
 少女は不思議そうに首を傾げた。セイルは「変じゃないよ」とはっきり言った。セイルの言葉をどう取ったのか、少女は今まで以上に不思議そうな顔をしてみせたけれど、次の瞬間、にっこりと微笑んだ。
「えへへ、何か嬉しいな」
 それは、余りに無邪気な……年上のはずなのに、セイルよりもずっと幼い子供のような笑い方だった。
 何だか奇妙な女の子だと、セイルは思う。セイルのクラスメイトや学校の先輩とは何もかもが違っていて、確かに少しだけ戸惑うけれど、決して一緒に喋っていて悪い気分じゃない。この独特なテンポが心地よくすらあった。
「君って、この街の人じゃないよね。どこから来たの?」
「ユーリスから来たの。ユーリスの、センツリーズ」
 ユーリス神聖国の首都だ。セイルの故郷である旧レクスもユーリス領ではあるが、実際にセイルがユーリス首都の地を踏んだことは無い。世界樹を擁するユーリス神殿の総本山があるため、成人する時には必ず訪れることになるとは思うが。
 どうにせよ、このリベルの町からははるかに遠いのは確かだ。
「そんな遠くから、薔薇を探して一人で?」
 セイルの問いに、少女は首を横に振った。連れが一人いるのだというが、その姿は見えない。
「今は、ここにいないだけ。用事があるんだって」
「ふうん……それで、一人だったんだ。でも」
 祭で賑やかではあるけれど、知らない土地だ。セイルにとってはいつも違う色に染まっているといえ見慣れた町並みであっても、初めて来た少女にとっては広すぎる町だと思う。祭の喧騒を遠くに聞きながら、セイルはぽつりと、問う。
「寂しく、ないの?」
 少女は一瞬何を言われたのかわからないといった表情できょとんと首を傾げた。それから、少しだけ笑って言った。
「寂しくないよ。いつも、繋がってるから」
 セイルには、少女の言葉の意味がわからなかった。「繋がってる」というのはどういうことだろうか。頭を悩ませるセイルに対し、「寂しくない」と答えた少女は少女で、唇に手を当てて何かを考える風であった。
 その表情だけ見れば、その言葉を自ら否定したにもかかわらず「寂しそう」で、セイルは自分が何を考えていたのかも忘れて、少女の表情に見入ってしまっていた。すると、少女が急に顔を上げた。その表情は、何故か先ほどよりもずっと晴れやかな笑顔だった。
「ね、いいこと思いついた! あなた、用事とかない?」
「え、別に今日一日は無いけど……」
「それじゃあ、この町を案内してくれないかな。わたし、どこに何があるのかは知ってるけど、どこが面白いのかはわからないの」
 急な提案に、セイルは戸惑う。少女は「案内してくれたお礼はできないけどね」とちょっぴり苦笑いする。何もセイルだって少女からお礼が欲しいわけじゃない。けれど……
「連れの人、困らないの?」
「大丈夫。あの人なら、わたしがどこにいても見つけてくれるから」
 自信満々の少女の言葉に、セイルはもはや「そういうものなのか」と思うことしか出来なかった。確か、持ち主がどこにいるのか教えてくれる魔法の道具なんかもあるらしいから、きっとそんなものを持たされているのかもしれないと思っておくことにする。
「ダメかな?」
 少女は荷物の上からぴょんと飛び降りて、セイルの顔を覗き込む。立って並んでみると、少女の方がセイルより少しだけ目線が高かった。
 断る理由なんて無かったから、セイルもにっと笑ってみせる。
「いいよ。俺なんかでよければ」
「本当? ありがとう!」
 少女はぱっと笑顔になった。まるで南に咲く明るい色をした花のようだとセイルは思う。セイルもそれを見ているだけでちょっと嬉しくなってしまって、笑顔を深める。それから、ふと気づいて問うた。
「そういえば、君の名前も聞いてなかった。俺はセイルっていうんだ」
「……セイル?」
 ぱちくりと目を見開いた少女が、名前をオウム返しにする。それが妙に気恥ずかしくて、誤魔化すようにセイルは慌てて言葉を重ねた。
「そ、セイル。よくある名前だろ?」
 よくある名前であることは事実だ。クラスメイトにも同じ名前の生徒がいるくらい、本当にどこにでもいる名前なのだ。だが、セイルの想像に反して少女はにっこりと笑って言うのだ。
「いい名前。使徒ライザンを慕う聖者の名前ね」
 自分の名前の由来くらいはセイルも知っていたけれど、そうやって改めて言われると、いつもならばありきたりの名前としか思えない自分の名前がきちんと意味を持ったものに感じられるのが、不思議だった。
「わたしはスノウ。今日一日よろしくね、セイル」
 少女……スノウは、そっとセイルに手を差し出した。
「よろしく、スノウ」
 セイルは、その手をそっと握り返す。そうしないと壊れてしまいそうなほどに、スノウの手は小さくて、華奢だった。そして……小さく、その手が震えていることにも、気づく。
 それはそうだろう、いくら分厚いコートを着ているからと言って、こんな吹きさらしの場所に座っていたのだ、冷えるに決まっている。
 セイルは一旦握った手を離し、「ちょっと頭下げて」とスノウに言う。何を言われているのかわからなかったのか、不思議そうな顔をしながらもスノウは素直に頭を下げた。セイルは自分の首に巻いたマフラーを外して、スノウの首にかけてやる。
「これで、少しはあったかいんじゃないかな」
 スノウは毛糸のマフラーを見たこともないものを見るかのように広げたり巻きなおしたりしていたが、やがてかくりと首を傾げて問う。
「でも、セイルは寒くない?」
「俺は大丈夫。寒いのは慣れてるしな!」
 本当は、ちょっぴりやせ我慢だけど。それでも、震えているスノウの方が寒いはずだ。それならば、自分がちょっとくらい寒くても、問題は無い。声には出さなかったけれど、そう強く思う。
 すると、スノウはまたしばらくふかふかとマフラーを弄ったあとに、しっかりと首に巻きつけて、嬉しそうに笑った。
「ありがと、セイル。あったかいよ」
「よかった。それじゃ、行こうか」
 改めて差し出した手を、スノウが思ったよりもずっとしっかりと握り返す。その指先は冷たかったけれど、もう震えてはいなかった。それを確かめて、セイルは少女と並んで歩き出す。パレードが始まっているのだろう、賑やかな音楽と人々の歓声が、行く道の向こうから聞こえてきていた。