少女

 鐘楼が零時の鐘を鳴らす。
 スノウはゆっくりと目を開けた。堅く扉を閉ざされた部屋は、完全にも近い闇に包まれていた。机の上に置かれたランプだけが、今にも消えてしまいそうな炎を揺らしている。魔法の青白い光とは違う、柔らかな暖色の炎だ。
 頬に触れる空気は冷たく、今が冬でも一番寒い時期であることを否応無く理解する。この地域は限りなく温暖な方だが、冬が厳しいのは変わらない。けれど、スノウは小さく息をついてから、暖かな布団をはねのけて立ち上がった。
 豪奢な椅子の上にかけられた外套を羽織り、ベッドの下の靴をはいて迷いのない足取りで窓へと歩み寄る。
 カーテンを開けば、窓の向こうにはスノウの世界が広がっていた。月のない空には女神の涙が無数に輝き、その下には広大な神殿――楽園の中心、女神と世界樹を守る唯一の場所、ユーリス正統神殿があった。
 神殿の所々から漏れる魔法の灯りで、巨大な白亜の建物がぼんやりと闇の中に浮かび上がって見える。スノウにとっては見慣れた光景だけれど、果たして「彼」にとってはどうだろうか……思いながら、窓も勢いよく開け放つ。
 ごう、と音を立てて冷たい風が吹き込む。思わずスノウは目を手で庇い、数歩下がる。白い息を風に流しながら、スノウは何とか目を見開いて風の吹く方向を見据える。
 刹那、音もなく、風と共に一つの影が窓からスノウの部屋に降り立った。
 闇に溶け込みそうな、それこそ影のごとき漆黒の外套に身を包んだそれは、長身痩躯の男だった。限りなく黒に近い髪を肩の上で揺らす男は、顔を上げてスノウを見た。
 長く伸ばした前髪の間から覗く瞳は、窓から吹き込む風と同じ、凍り付くような色をしていた。
 そんな男をスノウは息を殺して見つめ返す。否、それは「見つめる」というよりは「観察する」と表現した方が正しかったのかもしれない。酷白な笑みを象る薄い色をした唇や、革の手袋をはめた小さな手、柔らかな絨毯を踏むブーツの爪先まで、目に映る何もかもを脳裏に焼き付けるように眺め続ける。
 すると、男は唇の笑みを微かな苦笑に変えてみせた。それでも、視線の刺すような零下の光は少しも揺るがなかったけれど。
 そんなに不思議かい、と。
 男は声に出さずに「言った」。スノウは小さく首を横に振る。本当は、仕草で表さなくとも彼女がその言葉に否定したことは男に伝わっていたはずだが、反射的に首を振っていた。
 何も不思議だったわけではない。ただ、自分の目でこの男の姿を見るのは初めてだったのだ。これほどまでに「よく知っている」相手だというのに、今の今まで自分はこの男がどんな顔で笑うのかも知らずにいたのだ。
 知ろうとも、思わずにいた。
 けれど、それも終わり。
 これからスノウの世界は変わるのだ。何もかも、何もかも。
 スノウは微笑んで、男に向かって小さな手を差し出す。生まれてからほとんどの時間を神殿の中で過ごしてきたスノウの指先は、白く柔らかな曲線を闇の中に浮かび上がらせる。
 男もスノウに応えるようにひざまずき、手袋を噛んで引き抜いて、ごつごつとした手で彼女の手を取る。それは、騎士が己の主君の手を取るかのようで、くすぐったく思う。男が芝居がかっているのは今に始まったことではなかったけれど。
 冷たい色の瞳を細め、いたずらっぽく笑った男が「言う」。
 ――さて、君は俺に何を願う?
 当然、スノウが男をよく知っているように、男もスノウのことは何もかも理解している。当然、スノウの願いを知らないはずもない。
 だが、これはきっと儀式なのだ。
 最初で最後の旅の一歩を踏み出すために、必要な契約。
 だから、精一杯の笑顔を浮かべて、唇を開く。
「連れてって。青い薔薇の咲く、最果ての庭に」
 喉を使って放った言葉は、闇の中に凛と響きわたった。男は満足そうに頷いてスノウの手を引いた。スノウと男は並んで窓の前に立つ。
 暖かな光を投げかけるランプに背を向けて挑むのは、誰も結末を知ることのない旅路。誰もが手を伸ばしながら届かない、女神の涙を湛える星空にも似た、遥かな闇だ。
 けれど、スノウは眼前の闇を恐れなどしない。見上げれば、窓枠に足をかけた男が穏やかに微笑んでいる。スノウも男に微笑みを投げ返す。
 もはや恐れるものなど何一つない。今この瞬間に繋ぐ手の温もりを信じ――

 窓枠を蹴って、飛んだ。