少年

 好き好んで不幸になりたがる奴なんていない。
 当然僕もそうだし、君だってそうだろう?
 人は誰しも「幸せになりたい」と望んでいる。
 それぞれの幸福を目指し、果てなき航海を続けているのさ。

  (一〇八一年 名無しの魔道機関学者、妖精使いに語って曰く)

 
 夢を見た。
 青い、青い夢。
 視界一面に広がる、「この世にあらざる」青い薔薇の夢。
 胸を締め付けるような、不意に悲しくなってしまうような、透き通ったアオが目蓋の裏に焼き付く。
 だけど、何故か、彼は確信していた。
 それはとても、幸せな夢なのだと――

「セイル?」
 声をかけられて、セイルははっと目を開ける。目の前には、大きな双眸があった。白目のない金色の瞳の中で針のように細くなった瞳孔をぼうっと見つめてしまうセイルに、ルームメイトのクラエスはふうと大げさにため息をついて肩を竦めた。
「僕の顔に何かついてる?」
「あ……あー、ごめん。ぼーっとしてた」
 セイルの言葉に、クラエスは「最近いつもそんな感じだね」とぴんと伸びた髭を揺らしてくすくすと笑う。
 確かに、クラエスの言うとおりだとセイルも思う。学校へ向かう道でも、授業中でも、こうやって細かな作業をしている途中だって、不意にセイルの心は現実から空想の世界に旅立ってしまう。
 そして、頭の中に浮かぶのはいつも、青い薔薇の咲く花畑。
 ある日からずっと見続けている、不思議な夢だ。
「また、青い薔薇の夢を見ていたのかい?」
「実はそうなんだ」
「大丈夫? 夜、きちんと眠れてないんじゃないか?」
「うーん……確かにそうかも」
 セイルは言って、手に持っていた造花をかざす。紙を幾重にも重ねて作ったそれは、セイルの夢に出てきたものとよく似た、現実には存在し得ない青い薔薇だった。机の上には、同じような紙作りの青い薔薇がこれでもかとばかりに積みあがっている。
 それは、セイルとクラエスをはじめとしたライブラ国立リベル上級学校の生徒たちが作る、学校と寄宿舎を飾る聖ライラ祭の花飾りである。
 遠い昔、楽園には「魔王」と呼ばれた男、イリヤが君臨していた。「悪魔」と呼ばれる異界の怪物を自在に操り楽園を恐怖に陥れた魔王だったが、女神ユーリスの神託を受けた聖女ライラが魔王をこの地で打ち倒した。
 その時に、心優しき聖女は魔王の亡骸に花を手向けた。それが聖女の奇跡によって生み出された、「存在し得ない」青い薔薇だったと言われている。
 以来、魔王の恐怖が払われた日を「聖ライラの日」と名付け、ここリベルの町ではその一週間前から青い薔薇飾りで町を飾り、平和を祝う盛大な祭りを行う。それが『聖ライラ祭』である。当然ユーリス神殿でも執り行われる祭ではあるが、リベルのそれは遥かに規模の大きなもので、この時期には楽園のあちこちから観光客が訪れることでも知られている。
 旧レクスの生まれであるセイルにとっては、今年が初めてのリベルで送る聖ライラ祭だ。辺りを包む祝祭の空気は、セイルの心を自然と弾ませる。明日が祭の初日と思えばなおさらだ。わくわくする心を抱えて、大人しく眠れるはずもない。
 きっと、そんな祭に浮き立つ気持ちが、自分に聖なる青い薔薇の夢を見せているのかもしれない……そう思っていると、クラエスが言った。
「明日から冬休みだしね。わくわくするのはわかるよ。そういえば、セイルはこっちに来て初めての冬休みだけど……家には帰るのかい?」
「ライラ祭が終わったら一度帰るよ。それまでは祭を目一杯楽しんでこいってさ。クラエスは?」
「僕は家もすぐそこだしね。ユーリスの日には帰るけど、それ以外はずっとここにいるつもりだよ」
「そっか。それじゃあ一日は一緒に回ってよ。俺、どんなものがあるのか全然知らないからさ、案内してほしいんだ」
 セイルがにっと笑うと、クラエスも目を細めて微笑んだ。人間のセイルに比べると表情の少ない獣人のクラエスだが、入学から今まで部屋を共にしてきたのだ、今ならクラエスの表情とその意味もしっかりと見て取れる。
「いいよ。別に約束があるわけでもないしね」
「やった! ありがとう、クラエス!」
 飛び上がるように喜ぶセイルを、クラエスは穏やかな表情で見つめる。セイルよりも二つ上の先輩であり、リベルの生まれであるクラエスにとっては、聖ライラ祭も決して目新しいものではないのだろう。もちろん、楽しみでないわけはないことくらい、その顔を見ればわかるけれど。
 クラエスは丸みを帯びた指先で最後の薔薇を折り終わると、それをセイルに手渡した。
「さ、これで最後だ。後はこれを飾り付けるだけだね」
 セイルは机の上に積みあがった手作りの薔薇をつぶさないように慎重に木箱に入れながら、横で一緒になって詰めるクラエスを見る。
「えっと、どこに行けばいいんだ?」
「君の担当は確か南門だったはずだよ。僕は別の場所の手伝いに行くけど、一人で大丈夫かい?」
 薔薇の花をいっぱいに詰めた木箱を抱えたセイルは、「大丈夫、大丈夫!」とからから笑う。セイルの体は同じ年齢の少年たちの中でも小さいから、ほとんど木箱に埋まるようになってしまっていたけれど、中に詰まっているのはふわふわした紙の薔薇だ、別段重くはない。
「それじゃ、行ってくるな!」
 肘で扉を開けて踊るような足取りで外に出ようとしたセイルに、「ちょっと待って」とクラエスが声をかける。セイルが立ち止まって振り向くと、不意に首に暖かなものが巻き付けられる。
 それは、柔らかな毛糸のマフラーだった。
 手のふさがっているセイルの代わりにしっかりとマフラーを結んでやったクラエスは、まぶしそうに金色の目を細める。多分、窓から差し込む西日が本当にまぶしかったのだろう。
「もうすぐ日が暮れるからね。外は寒いよ」
「ん、ありがとな。じゃ、行ってきます!」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 クラエスの声に背を押され、セイルは寮を飛び出した。
 外に出たセイルの体に、北からの冷たい風が吹き付ける。木箱を抱えたまま小さく震え、白い息を吐き出す。
 だが、その空気を冷たいと感じたのも一瞬のことだった。耳を澄ませば聖ライラの日を祝う曲を練習する笛と太鼓の音が聞こえてきて、別の場所からは町を飾り付ける人々の弾んだ声が響いてくる。
 いつもと同じ、けれど普段とは違う色に変わろうとしている道を駆けながら、セイルは笑う。辺りを行き交う人々も、誰もが笑っていた。
 祭が始まる。
 一年の終わり、聖ライラ祭が始まる。
「セイル、遅いぞ!」
 級友の声が響く。セイルは笑顔で「ごめん!」と叫び返して、仲間たちの待つ輪の中に飛び込む。
 赤く染まり始めた雲一つ無い空に、季節はずれの蝶が、羽を広げて飛び立った。