何が一番嫌いかと言われれば、凪いだ海が一番嫌いだ。夜の凪なんて、最悪だ。
そう言ったのは誰だっただろう。確かアーサーだったはずだ、とジーン――ユージーン・ネヴィルは思いながら、翅翼艇『ハムレット』の鞘羽を広げ、翅翼をひときわ強く羽ばたかせる。
――夜の海は、凪いでいた。
明かり一つない、完全な闇に閉ざされた海を、計器の叩き出す情報と通信だけを頼りに進む。その心細さは確かに筆舌に尽くしがたいところがある。前に進んでいるのか、後ろに下がっているのかも定かではない。もし、計器が少しでも狂っていたら? 通信に誤った情報が載せられていたら? 後者は僚機であるアーサーが得意とするところなだけに、その可能性を否定しきることができずにいる。
海は酷く静かで、戦闘中だとは思えない静寂に満ちている。聞こえるのは『ハムレット』の立てる音くらいで、それもほとんど同調する身体と一体化してしまっており、意識しなければそれが音なのだということも感じ取れない。
このままでは、静寂に押しつぶされるのではないか?
そんな益体もない想像を振り払うためにも、翅翼艇間通信を開いて声を上げる。
『アーサー。……聞こえてるか』
『聞こえてます。やな夜ですね』
アーサーの声は緊張に満ちてこそいたが、思っていたよりはずっと軽くてほっとする。まだ、この凪に押しつぶされてはいないということだから。
『こんな夜は大人しく眠らせて欲しいものだな』
『ほんとですよ。静かでめちゃくちゃよく眠れそうですもん』
だが、現実はそうはならなくて、だからジーンとアーサーはこの場に存在している。
『それで、方角はこれで正しいんだな』
『ええ。この調子なら三十秒で戦域に入ります』
差し込まれた情報を魂魄の片隅に展開する。『ハムレット』が自動的にカウントダウンを始めるのを横目に、改めて目の前の闇に向き合う。アーサーの翅翼艇『キング・リア』の姿は視界内には見えないが、そう遠くない場所を追随しているはずだ。
『ねえ、ジーン?』
『何だ』
『……オレが正気でなくなったら、止めてくださいよ、きちんと』
それは。
アーサーの口癖のようなもので。
ジーンはその言葉にイエスともノーとも言わない。そして、アーサーもジーンがそういう反応をすることはわかっていて、くすりと笑いを漏らすのだ。
『頼みますよ、ジーン』
ジーンは何も言えない。戦場でアーサーが徐々に精神を蝕まれていることには気づいていて、気づいていてもどうしようもなかったから。イエスともノーとも言えないのは、本当にそうなったとき、自分がどうするのか想像もつかないからだ。
そして、それがジーンなりの「誠意」であることを知っているアーサーは、いつもの調子でこう言うのだ。
『ま、大人しく壊れてやる気もないですが。……行きますよ』
『ああ』
それがまだ「いつもの調子」であることに内心安堵し、果たしていつまでこのままでいられるのかを思いながら。
ジーンは闇を裂くように翅翼を打つ。
(ある夜の戦場にて)
霧世界余録