赤い夢は、もう、見なかった。
けれど、彼の意識の中には、空色の少年の悲痛な思いが焼きついている。
セイル。
セイル。
何度も呼んでみるが、返事は無い。当然だ、少年は己から望んで彼を手放した。もはやこの声が届くことはない。
あの少年の手を離れた以上、彼の意識もまたすぐに沈んでいってしまうだろう。既に、高いところから落下していく感覚と共に、ゆるゆるとした眠気が彼の意識を闇の奥に引きずり込もうとしている。それでも彼は何とかその誘惑を振り切り、もう一度少年の名を呼ぶ。
セイル……!
だが、空色の少年の気配は完全に途絶えていた。徐々に彼を形作る輪郭も、曖昧になってゆくが……
――ふざけるな。
ふつふつと胸に内から沸きあがってくる怒りが、彼の意識をぎりぎりのところで繋ぎとめていた。もちろん、繋ぎ止めていられるのも一瞬のことに過ぎない。仮に意識を失わないでいられたとしても、彼の手を握る者がいない限り、彼の思いが他の誰に伝わることもない。
それでも、今ここで大人しく眠るわけにはいかなかった。
楽園を混乱に陥れようとする、遠い日の使徒の企みは失敗に終わった。最も失ってはならなかった者の犠牲と引き換えに。
突き刺された体、共鳴因子を通じて伝わってきた痛み。あの男は何も感じてはいなかったはずだが、彼は確かにあの瞬間、激しい痛みを感じていた。それは、肉体の痛みではなく、心を失ったはずのあの男が抱いた、無念の感情だったのかもしれない。
無念。そう、無念だっただろう。
何もかもを投げ捨てて、駆け抜けてきて。最後の最後に、大切なものを掴んだと思ったのに、それが両腕から零れ落ちていったのだ。いや、大切なものを掴んだその両腕から、崩れ落ちていったのだ。
その無念の思いは、あの男の最後の言葉にも、現れていた。
ほとんど聞こえなかった、それこそ、空色の少年とその聴覚を使っていた彼にしか、聞き届けられなかった最後の言葉。その悲しい響きが、ずっと、ずっと、彼の内側で木霊している。
――ふざけんじゃ、ねえよ……!
人としての肉体を持たない彼の、存在しないはずの胸がかっと燃え上がる。
あの男を失った結果、空色の少年は失意に沈み、共に歩んできた少女の手すら振り払って、空虚な心を抱えてこの先を生きていこうとしていた。
そんな少年を前にして、彼は何も言えなかった。いや、言おうとしたけれど、伝わらなかった。彼を必要としない少年に、彼の言葉は届かない。彼はそういう風に作られてしまっていたから。
それでも、それでも。
届かないとわかっていても、呼びかけずにはいられないのだ。
時に迷い、時に悩み、時に立ち止まりかけながらも、彼の手を取って前に進んでみせた、空色の少年に。
――まだ、何も終わっちゃいねえじゃねえか!
彼は、闇に落ちゆきながらも、もがくように架空の『腕』を伸ばす。彼の意識は、頭上に広がる遥かな青を見ていた。
もちろん、それは長らく彼を苦しめていた赤い夢と同じように、彼自身が生み出した幻だ。彼がずっと共に歩んできた、空の青。悲しいほどに青く澄み渡った、空。
あの少年そのものでもある青い夢を前にして、彼は声なき声で吼える。
――こんなところで、終わってたまるかよ!
空色少年物語