空色少年物語

26:結末には早すぎる(3)

「え?」
 セイルの口から漏れたのは、どこまでも、からっぽの声だった。
 何を言われたのか、わからなかったわけではない。シュンランの心に燃える思いも、ガブリエッラの主張も、理解は出来ている。ただ、セイルの心には何一つ響いていなかった。だから、シュンランの目を見ながらも、遠い意識のままに唇を開いていた。
「おかしいのかな」
「セイル?」
「終わってない、っていうけど……俺の望みは、もう、二度と叶わないんだ。それは、終わったってことにならないのかな」
 ぽつり、ぽつりと。落とす言葉は、セイルの心からの言葉だった。
 失われたものは、もう、戻ることはない。色々な思いや願いを胸に駆け抜けてきたけれど……それらは全部、あの瞬間に胸から零れ落ちてしまった。その時に、セイルの物語は終わっていたのだ。
 最低でも――セイルの中では。
 シュンランは、愕然とした表情でセイルを見て、唇を強く噛んだ。その目に再び涙が浮かんだのを、セイルはまるで硝子越しの映像を見るかのような気分で見ていた。
 やがて、服の裾を掴んだシュンランは、きっとセイルを睨みつけて叫んだ。
「……っ、馬鹿っ、もうセイルなんて、知りません!」
 そのまま、セイルに背を向けて、駆け出す。真っ白な髪を飾る青い花飾りが、赤と灰色を基調にした部屋の中で、やけに強くセイルの目に焼きついて。そのまま、シュンランの小さな姿は扉の向こうに消えていった。
 セイルは、消え行く背中に手を伸ばしかけて、やめた。
 これでいいのだ。シュンランはシュンランの思う道を貫けばいいし、それを邪魔したいとは思わない。ただ、もはやシュンランと自分の道が交わることはないのだ、そんな思いがセイルの体に重たくのしかかっていた。
『……セイル、お前』
 ディスの声が、微かな非難の響きを帯びるが、それでもそれ以上の言葉をかけることはなかった。ディスにもわかっているのだ。セイルにとっては、これが何よりもの「終わり」であるということを。
 セイルは、自分以外の誰にもディスの声が聞こえていない、ということを理解しながらも、あえてはっきりと声に出して言った。
「今までありがとう、ディス」
『セイル、これでいいのか』
「いいわけ、ないだろ」
 ディスの言葉に対して、冷たくなっていた心が、微かに動いた気がして。思わずそんな言葉が口をついて出た。
 そう、これでいいなんて、思っていない。思えるはずもない。けれど、けれど……
「でも、どうしようもないじゃないか……!」
 手に握ったリボンは何も応えてはくれないのだ。大切な何もかもを隠しながらも、確かにセイルの行くべき道を示してくれていた人は、もう、何処にもいないのだ。いなくなったということがわかってしまえば、セイルが旅をする理由もない。
 だから、セイルはそっと、手を伸ばす。そこに意識を向ければ、手が奇妙な形に変形して、やがて一振りのナイフが握られる。全ての始まりとなった、『世界樹の鍵』……『ディスコード』が。
 指先から伝わってくるディスの思考は、耳障りな波のようで上手く言葉として伝わってこない。今まで、こんなことは一度もなかったのだけれども、聞こえなくてよかったとも思う。ディスはいつもセイルに対しては正しくて、正しすぎる。
 今のセイルには、そんなディスの言葉を最後まで聞き届けられる自信も、なかったから。
 ただ、もう一度だけ、その握りの感覚を、頭の中にまで響いてくる不思議な声を確かめるように『ディスコード』の柄を握って……そのまま、抜き身のナイフをガブリエッラの前に差し出す。
「お返しします。俺に任せてくれて、ありがとうございました」
「……ああ」
 ガブリエッラは、一瞬だけ躊躇ったようだが、セイルの思いを察してくれたのだろうか、すぐに『ディスコード』を受け取った。その瞬間に、セイルの脳に響いていた波のような音も、すうっと消えてしまった。
 ずっと、ずっと、自分の中にあった大切なものが、もう一つ、零れ落ちてしまった感覚に囚われるけれど、そのことは、考えないようにした。
 目の前に立つガブリエッラは、仮面の下で赤い目を細めて言った。
「君には、本当に辛い思いをさせてしまったな、セイル」
「いいえ。ここまで来たことを、後悔は、してないんです。だけど、何だかすごく、疲れました。今は……ただ、帰りたい、です」
 帰って、どうなるかはわからない。元の生活に戻れるとは到底思えない。それでも、ただ、帰りたいとだけ思った。そんなセイルの言葉を聞いて、ガブリエッラは深く頷いて答えた。
「そうか。ならば、すぐに帰りの船の手配をさせよう。クラウディオ、頼んだぞ」
 傍らのクラウディオは、複雑な表情で顔をあげ、
「しかし、セイル君は……」
 と言い掛けたが、その言葉をガブリエッラが遮った。
「彼がそれを望んでいるんだ、叶えない理由もあるまい」
 クラウディオの顔に、セイルにもはっきりとわかる苦いものが走ったが、すぐに取り繕うような笑顔を浮かべると、「そうだね」と小さく頷いた、
「それじゃあセイル君、準備が出来たら呼ぶよ。それまでは、部屋で待機しているといい」
「ありがとう、ございます」
 かろうじて、それだけを答えて。セイルは、ふらりとクラウディオの背中を追うように一歩を踏み出す。その時、チェインがセイルの名を呼んだ。
 ふと、顔を上げると、チェインと目が合った。眼鏡の奥の秋空色の瞳は、悲しいほどに澄んだ色を湛えていて、それがセイルの心を微かに痛ませる。だから、その思いを振り払うように、セイルの方から言葉を投げかけていた。
「チェインは、これから、どうするの?」
「まずは、蜃気楼閣と後始末の話をしてから、神殿に帰るよ。その後のことは……わからないな。影追いを続ける理由もなくなっちまったしね」
「チェインは、ブランのこと、殺す気だったの?」
 答えを聞くのは怖かったけれど、これで最後なのだと思って、思い切って聞いてみた。すると、チェインはほんの少しだけ唇を歪めて、言った。
「そう見えたかい?」
「……ううん」
 セイルは、素直に首を横に振っていた。ブランの正体がわかってなお、チェインはあくまで冷静だったから。
「なら、そういうことなんだろうよ」
 本当は、チェインがどう思っていたかなんて、わからない。わかるはずもないけれど、ただ闇雲に、姉が死ぬ原因を作ったブランを憎んでいたわけではない、ということははっきりと理解できた。そんなことを思っていると、チェインが、「一つだけ」と話を切り出す。
「お願いがあるんだ」
「何?」
「その銃を、私に譲ってくれないかい」
 どうして、と問うこともできた。だが、セイルは迷わずブランの銃をチェインに手渡していた。セイルにとって、この銃は何の意味も持たない。それとわかっていながら、持ってきてしまったものだ。きっと、チェインにとっても同じようなものなのだと、思っている。
 銃を手渡されたチェインは、重さを確かめるように、握りを握って引鉄に指をかける。ただ、その引鉄を引くことはなかった。
 鋼の武器を見下ろしたまま、チェインはそっと唇を開く。
「ありがとう。……じゃあね、セイル」
「うん。チェインも……元気で」
 お互いに、「また」の言葉はなかった。
 ただ、チェインの横を通り過ぎるときに、ふと、目に付いたものがあった。
 長い耳に揺れる、黒猫の耳飾り。
 それは、ブランがチェインに贈った、たった一つの贈り物だった。それが、今もなおチェインの耳で揺れていることに、微かな胸の痛みを覚えながら……セイルは足早に部屋を後にした。