空色少年物語

幕間:二人の長い夜

 随分長い夜だ、と。
 チェインは思いながら、寝台の上に横たわって眠るブラン・リーワードを見下ろしていた。ブランは膝を抱えるような姿勢で丸まっている。顔は壁に向いていたから、チェインがその表情を伺い知ることはできなかったが――顔を合わせられない、と無意識に感じているに違いない。眠っている時ですら。
 その一方で、チェインもブランと向き合ったところでどんな顔をすべきかわからなかったから、ブランがこちらを向いていないことは、ありがたくもあった。
 まだ、夜明けには早い。海中に潜ることもある蜃気楼閣の部屋に、楽園の空を映す窓はないが、それでも、淡い光を宿すランプに照らされ、壁に掛けられた知らない形の時計が、夜明けが遠いことを告げている。
 歯車が噛み合って針を動かす、そんな、機巧仕掛けの時計を見るともなしに見つめながら、チェインは遠い日に思いを馳せる。
 この男と、初めて出会った日のことを。
 それは、決して、空色の少年たちと対峙した日ではない。
 チェイン自身も忘れかけていた、ほんの小さな記憶。自分が平穏な日々を過ごしていた頃の、この平穏が永遠に続くと思いこんでいた頃……チェインは、初めてこの男と出会ったのだ。
 ゆっくりと息をつき、眼鏡の下で目を閉じてその光景を思い出す。
 淡い光の差し込む書斎に、この男は一人で座っていた。背を向けていたから、何をしていたのかは定かではなかったけれど、机に積みあがった本の山を見るに、何かを調べていたのかもしれない。
 次に思い出すのは紅茶と焼き菓子の香り。手の中にあったものをはっきりと覚えてはいなかったけれど、あの頃は姉にせがまれて、毎日のようにマフィンを焼いていたような気がするから、きっとそれだ。
 茶と菓子の載った盆を差し出すと、初めてこちらの存在に気づいたようにびくりと顔を上げて……初めて、真正面からお互いの顔を見た。
 北方の特徴を色濃く残す白い肌に淡い金茶の髪。女の自分よりも細いかもしれない、本を抱えた骨ばった腕。そして、何よりも脳裏に焼き付いた、瞳の鮮やかさ。ぱっとしない見た目をしているのに、その青さだけははっきりと覚えている。
 そして――大切なものを捧げ持つように盆を受け取り、小さく、何かを呟いたはずだと、思い出す。その声も、言葉の内容も、記憶の彼方だったけれど。
 それにしても、何故今まで思い出せなかったのだろう、と自分自身に呆れる。ここまで印象に残っているというのに、先入観というのはどうにも恐ろしい。それに、この男と、己の記憶とを結び付けたくない、という無意識の働きもまた、否定できなかった。
 そして、『レザヴォア』という外部装置を通す限り「忘れる」という概念を持たないこの男が、自分のことを忘れていたはずはない。
 つまり、最初から、ブランは何もかもを知っていて、その上でチェインと共に行動していたのだ。
 『機巧の賢者』のことを調べているうちにチェインのことを知った、という言葉も決して嘘ではないが、真実の「全て」ではない。この男の得意な詭弁だ。全ての理不尽を飲み込んで、渦巻く思いを作り笑顔の下に押し込めたまま、薄氷の上を歩くことを選んだこの男らしい態度だ。
 ただ、ブランがこの場所に辿りつくより先に、自分がこの男のことを思い出していれば、何かが変わっただろうか。
 いや、もしもの話は好きではない。
 結局、自分はずるずるとこの場所まで来てしまった。その事実は、覆しようもない。
 もちろん、ブランも後戻りなど考えていないはずだ。後戻りを選ぶ理由もない、とは思う。
 チェインの思い描くような、幸せな結末はもはや望みようもないけれど……それでも、この男の想定していた、最悪の結末はすでに覆っている。本来ならそこにいるはずもなかった、空色の少年の登場によって。
 ブランの視点で一連の出来事を考えるならば、想定外の連続だったに違いない。自身にとっての切り札だった『ディスコード』を奪われ、本来守るべき相手に諭され、一人になれないままに、最後の戦いに挑もうとしている。
 実際……本当は、チェインとも、共に行動するつもりはなかっただろう。それは、空色の少年に関わることと同じくらい、ブランからすればもっとも避けたかった選択だったはずだ。
 それでも、ブラン・リーワードはここにいる。
 ここに、いるのだ。
「本当に、手の掛かる奴だね、アンタも」
 口の中で呟いて、濡れた布で、そっとブランの喉元を拭う。すると、ブランは小さく呻いて、薄く開けた目をチェインに向けた。普段は鋭い光を伴っている氷河の瞳も、今宵ばかりはぼんやりと虚空を彷徨って。
「……悪い、少し、寝てたか」
「いいよ。どうせ、今までまともに眠れてなかったんでしょ。薬に頼るでも何でも、寝ないよりは幾分マシ」
「そうね」
 まだ意識が朦朧としているのか、普段よりもずっと素直に認めて、ブランはチェイン……というよりも、チェインがいる辺りを眺めながら、静かに言った。
「な、チェイン」
「何?」
「全部終わったら、二人でどこか出かけないか」
 はあ? とチェインは思わず棘のある返事を返してしまうが、ブランはチェインに焦点を合わせないまま、淡々と、淡々と、言葉を紡いでいく。
「誰の手も届かないくらい、遠い、遠い場所だ。そうだな、空がきれいに見える場所がいい……なんて言ったら、わがままに過ぎるかな。でも、行くならそういう場所がいい。最後には、全部、そっちに任せることになるだろうけど」
 夢心地の、チェインには意味の通らない言葉の羅列。先ほど入れた薬が効いているせいなのか、それとも――と考えたところで、チェインは気づいた。
 気づいて、しまった。
 誰の手も届かないくらい、遠い、遠い場所へ。
 それが、この男がずっと、胸の奥に隠し持っていた願いだったに違いない。心の働きをことごとく欠き、己の腕の中にあるべきものを全て失いながら、ささやかな願いだけを支えにして、この場所に辿りついたのだ。
 そこに、ブランの悲壮なまでの決意があった。
 だが、最後の最後に己の抱えていた全てをチェインに対して吐露してしまう程度には、この男も、強くはなかった。ただ、それだけの話。
 そんな男に、どんな言葉をかけるべきなのか、チェインにはわからなかった。だから、今はただ、これだけを言った。
「……約束だったね」
 自分は、何も気づけないままに、あまりにも大きな約束を交わしてしまったのだと思い知る。最初からこの男はそのつもりだったというのに。
 ただ、このまま、この男の思い通りに終わらせるわけにはいかない。チェインは唇を噛んで、ブランの横顔を見据える。
「でも、一つだけ、こっちからも約束させて」
「……何だ?」
「全てが終わったら、先に聞かせて。アンタが抱えてたもの、黙ってきたこと、全部。私だけじゃない、セイルたちにも、全部喋るんだよ」
 そんなことか、と。ブランは頷いて、言った。
「そうだな、話さなきゃならねえとは、思ってたよ。過去から現在に至るまでの因果。それに……俺が殺したアイツのことも」
 ブランはゆっくりと体を起こす。何処かが痛むのか、微かに表情を歪めたが、それも一瞬のことで。微かな灯りに浮かび上がる青白い顔の中で、強い……凄惨な光を宿した氷河の瞳が、今度こそ、チェインを真っ向から見据えた。
「セディニムさん」
 彼の唇から放たれたのは、チェインが本来持っていた名前。人の名前を呼ぶ時にだけ、微かな北方の訛りが混ざる。その癖もまた、初めて出会った時に気づいていたではないか。
 そんな、懐かしいような、胸の痛みを呼ぶような、嗄れた声で。
 たった一言だけ、無表情のままに呟いた。
「ありがとう。それから……ごめん」
 ブランの言葉には、あくまで温度はない。
 だが、その根底に揺らめくのは、狂おしいまでの思いであることを、チェインは理解した。彼自身にはどうやっても自覚することのできない感情の渦なのだ。
 ぐっと、濡れた布を握り締める手に力が入る。セイルがそうしたように、その横っ面を全力で殴り飛ばしてやりたい気分に駆られる。だが、そうはしなかった。代わりに、ブランの肩を押して、無理やり寝台に横たわらせる。
「いいから、とっとと寝な。そんな顔、セイルには見せられないだろ」
「正論」
 ブランは目を細め、チェインを見上げた。やはり、その表情にはいつものような覇気はない。ゆるり、と伸ばされた指先が、チェインの頬の近くに寄せられて……しかし、触れることは無く布団の上に落ちる。
「おやすみ、チェイン」
 乾いた唇で囁いて、ブランは再びチェインから顔を背けて目を閉じる。
 チェインは、しばし、ブランの肩を押さえた姿勢のまま固まっていたが、ブランがそのまま眠りに落ちていったのを見届けて、手に握ったままだった布を、水を溜めた器の中に落とす。
 布に染み込んでいた赤いものが、水に溶け出すのを眺めながら、チェインはぽつりと呟いた。
「……卑怯者」
 その声は、果たしてブランに届いていたのかどうか。
 何もかも、何もかもわからないままに、夜は、更けていく。