「楽園には、時々俺様やセイルみたいな、『存在しない時代』の事物と縁のある奴が生まれる。俺たちが持つ『ディスコード』を操る力――『ユニゾン』の効果は何も『ディスコード』のみに及ぶものじゃねえ、本来は『存在しない時代』に造られた禁忌機巧を操る能力なのよ」
それは、初耳だ。
だが、ブランが今までそれを言わなかったのは、言う必要がなかったのに加えて、セイルを必要以上に引き込まないためだったのかもしれない。楽園の裏側、禁忌と異端の世界に。
「で、『ユニゾン』を持つ奴は、それに加えて人とちょいと違った能力を持つことがある。セイルの『針を回す』能力しかり、俺様の『アーレス』しかり。で、俺が持つもう一つの力……『レザヴォア』も、その一つだ」
「レザヴォア……水を溜める場所、のことですか」
シュンランが、ぽつりと呟く。シュンランの、失われた記憶の何処かが、そう囁いたのだろうか。その言葉を聞いたブランは小さく頷いてみせる。
「本来は、そういう意味らしいな。だが、俺様は『知識の貯蔵庫』っていう意味合いで認識してる……俺様、というよりは『レザヴォア』を持つ『俺たち』の共通認識として、ってとこだが」
――俺たち。
ブランは、そう言った。
知識の貯蔵庫、という名を持つ能力。そして、ガブリエッラの「血に連なる者の記憶を受け継ぐ」という言葉。それらが導くものを、セイルは正しく想像することはできない。できなかったけれど、ブランがどのようなものを抱えているのかは、おぼろげながらに掴めはじめてきた。信じられないような、しかし、ブランの今までの言動を見ている限り、決して嘘と言い切ることはできない能力。
そんな、セイルの中に生まれつつあった仮定を、チェインの言葉がはっきりとしたものへと変える。
「つまり『レザヴォア』ってのは、『ユニゾン』を持つ連中と、知識を共有する能力ってことかい?」
「ご名答。十割の正解じゃないが……よくわかったな、姐さん」
ブランは軽く肩を竦めてみせる。一定の知識を持っているとはいえ、禁忌や異端と最も離れた場所にいるチェインがそれを答える、というのは確かに意外なことだったのかもしれない。だが、チェインは眼鏡の下からブランを睨み付けながら言う。
「神殿でも、本殿から一歩も出たことがないはずなのに、遠く離れた場所の出来事を見聞きしたように知ってる人物がいたからね。そういう能力があってもおかしくないって思っただけさ」
「ああ、その話は神殿じゃ有名か。そいつも俺と同じ『レザヴォア』持ちだ。『レザヴォア』の場合、持ってるってよりは『繋がってる』って言い換えた方が正しいんだが」
「繋がってる?」
「そもそも『レザヴォア』ってのは、楽園のどっかにある馬鹿でかい機巧の名前だ。俺の脳味噌は目に見えない糸で『レザヴォア』と常に繋がってて、見聞きしたことや考えたことを、無意識のうちに『レザヴォア』に格納している。で、見たいときに『レザヴォア』に格納された知識や記憶を、自由に引き出せる仕組みになってんだ」
要は巨大なデータベースだな、とディスが頭の中で呟く。だが、データベース、という言葉の意味がわからない。ディスとセイルのやり取りが聞こえていたのだろう、軽く顎を撫ぜたブランは、目を細めて言った。
「もうちょい噛み砕くと、『レザヴォア』ってのは、何人もの人の頭ん中をまるっと収めて整理した、巨大な図書館みてえなもんだ。人の目には見えねえし、そこの本を読めるのも、ほんの一部の奴だけだが」
「だから、ブランはそんなに物知りだったのですね」
シュンランは、すみれ色の瞳を丸くして、ブランを見上げた。シュンランにとっても、ブランが持つ能力は驚きに値するものであったらしい。けれど。
「……物知り、な。何もかも、何もかも、借り物だが」
ブランの言葉は、投げやりな響きを帯びていた。その声の無機質さに、セイルはぞっとする。そして、セイルの脳裏で蠢いたディスは……許可もなしにセイルの唇を借りて、言った。
「だろうな。手前の頭は、まともに働いちゃいねえんだから」
「どういうことです、ディス」
「何となく、お前らだって気づいてんだろ。こいつは、『レザヴォア』なしじゃ、周囲を認識することも出来やしねえんだよ」
――それって、あの時の、こと?
セイルは、突然ディスが体を奪ったことに対する憤りもよそに、呆然とブランをディスの視点で見つめていた。
セイルの頭の中に浮かんだのは、ブランがセイルの前に立ちはだかった時のことだ。あの時、セイルの一撃をもろに喰らったブランは、一瞬、目の前にある何もかもを忘れてしまったかのように振舞っていた。そうだ、『レザヴォア』という言葉も、この時ディスの口から聞いたのだった。
ブランは、氷点下の瞳で、無感情にディスを見据える。表情らしいものをその青白い顔から見出すことは出来なかったが、それでも、睨んでいるのだとわかった。
「余計なことを言うな」
「黙ってる理由もねえだろ。それが『アーレス』の有無以上の手前の致命的な弱点だ、今更隠す方がどうかしてる」
ディスは、彼には珍しく、真っ向からブランの視線を受け止めて言い放った。ブランは小さく息を飲んだようだったが……しばしの沈黙の後、重々しく首を振った。
「そうだな、悪かった。ディスの言う通り、俺様は『レザヴォア』抜きじゃ、物事を覚え続けていることができねえんだ」
物事を、覚え続けていられない。
その言葉は、完全に、ブランの記憶が何もかもかりそめのものであることを示していた。自分と誰かの記憶を蓄積していく『レザヴォア』という媒体を通してしか認識できない、ブランの世界。それはもはや、セイルの想像を絶したものだった。
「さっき、常に繋がってるって言ったが、何らかのきっかけで『レザヴォア』に繋がらなくことが稀にあるんだ。そうすると、もう、何もかもがわからなくなる。俺が誰なのか、目の前にいるのが誰なのか、今まで何をしていたのか」
「そんなに酷い状態だってのに、ずっと、黙ってたのかい」
チェインの声も、震えていた。それはそうだろう、知識と記憶を武器にするブランのあり方が、ここまで細い糸の上を渡るようなものであったとは、誰も思いもしなかったはずだ。
ディスは――知っていた、ようだったけれど。
『ディス……ディスは、知ってたんだね。このことも』
ディスが返したのは、一瞬の沈黙。そして、『ユニゾン』を持つ者にだけ届く、吐き捨てるような言葉だった。
――俺だって、気づいたのはお前がブランを殴りとばした時だ。『レザヴォア』を、そんな形で使ってるなんて、思いもしなかったからな。
『でも、それなら、どうしてすぐに言ってくれなかったんだよ。知ってたら、ブランに無理はさせないって思えたのに! 危険なことがないように、俺が……』
「だからだ、セイル」
「え……?」
いつの間にか、ディスはセイルの体の中に潜り込んでいたらしく、セイルは己の唇で疑問の声を上げていた。ブランは目を細め、ぽんとセイルの空色の頭を叩いた。
「ディスをそう責めないでやってくれ。こいつは、俺の下らねえ矜持につき合わせちまっただけだ」
『下らねえ。本当に、下らねえよ』
セイルの中のディスが呟く。セイルは、どうしていいかわからず、自分の左手とブランを交互に見ていたが、何とかぐるぐると巡る思考を纏めて、ブランを見上げる。ブランの瞳は、いつになく寂しげな光を宿していた。寂しい。それを思う感情が、この男に残されているのかは、わからなかったけれど。
「俺様はね、俺様自身で決着をつけたかったのよ。何もかもを覚えていられない俺様に、本当の意味で、その理由が残されてるのかはわからねえ。でも、『レザヴォア』の中に蓄積された『俺の記憶』が言うんだ」
――俺には、やらなきゃならねえことがある、って。
ブランの声は、どこまでも、決然としていた。
悲しいまでに。
「だから、ディスにも、お前さんにも、他の誰にも邪魔されたくなかった。きっと、言ったら止められるだろう、って思ってたからな。それだけの理由で何もかもを黙ってたことは謝る。すまなかった」
ブランは、いたって素直に頭を下げた。そうすると、セイルはそれ以上何も言えなくなる。ブランにも、ブランなりの決意や意志がある。時には見当違いなこともあるけれど、彼を突き動かす理由そのものを、否定する理由はセイルにはない。
けれど、これだけは。これだけは言っておきたくて……セイルは、ブランを見つめる。
「……俺は、止めないよ」
それが、ブランの決意だというならば。
確かに、『レザヴォア』に頼っているブランのあり方は危うい。『レザヴォア』を欠いたブランの姿を見ている以上、尚更そう思わずにはいられない。
それでも、セイルは止めたくなかった。ここまで辿りついたブランの思いを、無駄にはしたくなかったから。それが、どれだけ悲壮な覚悟に彩られていたとしても……セイルは、その全てを受け入れて、支えたいと感じていたから。
顔を上げたブランは、硬かった表情を、少しだけ和らげたように見えた。その唇が囁いた掠れ声は、ほとんど聞こえなかったけれど。
「ありがとう」
と、言ったのだと、思う。
ただ、チェインは、なおも鋭い視線でブランを睨めつけ、刺し貫くような言葉を投げかける。
「本当に、謝るべきことはそれだけかい?」
虚を突かれたように、目を丸くするブラン。長い睫毛に縁取られた秋空の瞳が、何を思ってブランを映しこんでいたのか、セイルにはわからない。ブランにも、わからなかったのだろうか……数秒の間を空けて、ブランが小さく首を振った。
「手厳しいわね、姐御は。でも、とりあえず、今は話を先に進めさせてほしいかな」
チェインはそれ以上何も言わなかった。視線の鋭さこそそのままに、無言で、ブランに話の続きを促す。ブランは、露骨な安堵を態度に滲ませながら、つとめて軽い口調で言葉を続ける。
「さて、俺様は『レザヴォア』を持って生まれたわけだが、俺様の他にも同じように過去数百年に渡って蓄積してきた記憶を閲覧できる奴がいた。この蜃気楼閣にも、な」
「だから、ブランは、ここのことを知っていた、ですか」
「そゆこと。俺自身が会ったこともない竜王陛下の顔も知ってた、ってのはそういうことだ。そして、俺様の記憶……『レザヴォア』に蓄積された記憶は、ここで起こった『ディスコード』に関わる事件を、当事者として知るものでも、ある」
そこから先の説明は、陛下にお任せするけどね、とブランは言って、ガブリエッラを見上げた。肘をついた姿勢でセイルたちを見下ろしていたガブリエッラは、「そうだな」と体を起こす。
「君の記憶も、他者のものとはいえ、ある意味では主観だからね。まずは、私から話すことにしよう」
その瞬間、ぴん、と張り詰めた空気が流れる。ガブリエッラは、口元に笑みこそ浮かべてはいたが、心からの笑みというわけでは、なさそうだった。それに、先ほど確かに言っていた。
その事件は、「惨劇」なのだと。
心の中で、ディスが震える。怯えている。恐怖している。その思いはセイルにも伝わってきて、握った手に冷たい汗が滲む。
そんなセイルを仮面の下から一瞥し、ガブリエッラは滔々と物語を紡ぎ始めた。
ことの始まりは今からちょうど二十年前。『エメス』をはじめとした異端研究者たちの動きが、楽園上で活発化し始めた頃に遡る――
「それは私が、まだ『竜王』と呼ばれるようになる前、ただの小娘だったころの話だ。
その頃、蜃気楼閣を一つの危惧が支配していた。それは、禁忌や異端といった『存在しない』知識と技術が、楽園に表出するという危惧だ。
我々蜃気楼閣ドライグは、禁忌の技術を奉ずる国ではあるが、それを楽園全土に広めることは許していない。女神が嘘の歴史を広めたのは明白だが、その嘘が一般的に広まっている以上、真実を知らしめることは混乱を招くのみ。故に、楽園に生きる我々の役目は禁忌の知識を守ると共に、それを封じ続けることにある。その役目を果たしているからこそ、我々は暗黙ながら女神に存在を許されている、ということでもあるのだ。
……もちろん、それが、極めて不安定な立場であることは私としても自覚しているし、当時の王家も同様だった。異端研究者たちが、楽園の表舞台に姿を現しつつある現状を受け、時の竜王ミケランジェロは、二百五十年ぶりに『ディスコード』の封印を解くことにした」
二百五十年。その、不可解ともいえる区切りに、つい首を傾げてしまう。
「二百五十年前にも、『ディスコード』は封印を解かれていたんですか?」
「ああ。セイル、君は楽園史は得意かな?」
得意なんてとんでもない。セイルは苦い顔になる。飛空史であればどんな細かいことでもわかるつもりだが、楽園全体の歴史となると、どうにもぼんやりとした像しか結んでくれない。ただ、試しに飛空史の年表を頭の中に広げ、そこに関連する楽園の出来事を展開してみて、はっと気づいた。
「 『砂礫の魔女』サンド・ルナイトの決起?」
「ご名答。世界樹大戦の終結後、禁忌の存在を認めさせるために立った魔女が、神殿に宣戦布告した時代。この時、ドライグは『ディスコード』を解放し、一人の少年に渡した。その剣をもって、魔女サンド・ルナイトの狙いを阻止するようにとね」
禁忌の剣で、禁忌を奉ずる魔女を倒す。何とも奇妙な話ではあるが、ガブリエッラの主張を考えれば納得がいく。ドライグは、魔女の主張には決して同調できないのだ。
「既に君たちも知っている通り、『世界樹の鍵』である『ディスコード』は、世界樹、そしてある種の禁忌機巧を制御する力を持つ。『ディスコード』を渡された少年は、魔女サンドが起動しようとした兵器を止め、なおも戦いを続けようとするサンドを倒した……という話は、まあ、色々な部分を誤魔化されながらも、楽園の民なら知らぬものはいないだろう」
そうだ、これは、名も無き勇者の伝説だ。『何でも斬れる剣』を手にした流浪の少年が、仲間と共に悪い魔女を倒すまでの記録。何度も何度も、兄に物語るように頼んだ記憶が、セイルの脳裏に鮮やかに蘇る。名も無き少年の勇姿は、セイルの中では常に顔も思い出せない兄の、穏やかな時間の記憶と共にある。
だが、その物語の結末を、セイルは、知らない。続きを聞かせてくれると約束した兄は、それきり、セイルの前に姿を現さなかったのだ。
胸の痛みを覚えながらも、今は過去を思い出す時ではない。伝説に語られる『何でも斬れる剣』。それこそが、今、セイルの内側でざらざらと揺れている『ディスコード』だったのだ。その事実だけを、胸に刻み込む。
「かの伝説に語られるように、代々の竜王は『ディスコード』を一種の抑止力として捉えていた。下手に使えば楽園を混乱させるだけだが、正しく使えば現在の楽園を維持する礎となる。そのような、意志なき『力』の象徴だったのだ。
ただ、『ディスコード』が実際に『何が出来る』のかは、その大半が黒い箱……つまり、見通すことのできない状態だった。故に、竜王ミケランジェロは『ディスコード』の封印を解くと同時に、まずは『ディスコード』そのものの解析から始めることにした。まだ、当時は異端研究者も動き出したばかり、すぐに大きな嵐が来るとは考えていなかったのさ。
そして、解析を竜王から任されたのが、当時のドライグが誇る天才異端研究者であり、共鳴因子『ユニゾン』を保有していたディアン・カリヨンという男だった」
ディアン・カリヨン。
聞いたこともない名前。だがその名を聞いた瞬間、セイルの脳裏に何かが閃いた。視界を染める赤。べったりとした何かに覆われた右腕。鼻腔に広がる鉄錆の香り。違う、これは。気づいた瞬間、思わず絨毯の上に膝をついてしまう。
「セイル、どうしました? セイル!」
シュンランが肩を抱く感覚が、遠い。頭がぐらぐらして、吐き気が止まらない。
血。これは血だ。自分の血じゃない。床に崩れ落ちる少女の姿。耳を劈く叫び声。なのに、真っ赤に染まった剣を握った自分は……笑って、いる?
「……『ディスコード』 」
嗄れた声が、静かに響く。
「目を開けろ」
その瞬間、幻視は消え、強烈な吐き気も去った。目の前に血に塗れた少女の姿などなく、ただ、柔らかな絨毯だけがそこにある。顔を上げると、ブランが真っ直ぐにこちらを見下ろしていた。鋼のような氷色の瞳は、何を語るわけでもない。ただただ、シュンランに支えられたセイルの姿を……その奥底に潜むディスの姿を、映しこんでいるだけだった。
シュンランの手を借りて、ふらつく足で立ち上がる。すると、今の今まで黙っていたディスが、重たい声で囁いた。
『すまん、セイル』
「ううん、大丈夫。ディスの方が、辛そう」
『何、因果応報、自業自得ってやつだ』
吐き捨てるように呟いたディスは、『ブランに助けられるなんてどうかしてる』と冗談めかして毒づいた。ただ、その声は、どこまでも暗い。
本当に、大丈夫なのだろうか。そう思いかけた思考に、ガブリエッラの声がするりと分け入る。
「……話を続けて、問題ないかな?」
『問題ない。そう、伝えてくれ』
ディスがそう言うなら、伝えるしかない。ディスが放ったそのままの言葉を伝えると、ガブリエッラは仮面の位置をそっと整えて、長い物語を再開する。
「ディアン・カリヨンは、聡明な男だった。ただ……同時に、あまりにも繊細で思いつめやすい男でもあった。ディアンは、楽園の在り方と、我々ドライグ王家の方針に常々疑問を抱いていたようだ。果たして、禁忌を隠し続けることが、この楽園の未来に繋がることなのか。そんな思いを、ずっと、誰にも打ち明けられないままに胸の奥に秘めていた。
だが、ある時、ディアンは己の命が残り僅かであることを知ることになった。そして、何も出来ないままに、この閉ざされた機巧の城で死んでいくことに絶望した――これは、間違いではないな、リーワード博士?」
ガブリエッラに振られて、ブランは外套のポケットに手を突っ込んだ姿勢で答える。
「ああ、合ってるよ。ディアンは……結局のところ、己の生に意味を求めていただけだ。あの事件を『見た』当時はさっぱりディアンのことがわからなかったが、今なら、何とはなしに、理解はできる。同情はしねえがな」
そもそも、情ってもんが理解できねえからな、とブランはおどけてみせるが、ガブリエッラは笑わなかった。初対面のガブリエッラがブランが抱えている「欠落」の全てを理解しているわけではない、はずだが、その仮面を見ている限り、何もかもを見抜いているような、そんな感覚に囚われる。
その感覚が正しいのか否かは確かめられないままに、ガブリエッラの話は続く。
「死を前にしたディアンは、その事実を隠し続けた。己の思いも隠し続けた。隠したまま、淡々と我らドライグに反旗を翻すための準備を進めていた。そこに、異端に対しても、それ以外の者に対しても切り札になりうる『ディスコード』が転がり込んだんだ。渡りに船、というやつだったのだろう。
ディアンは『ディスコード』を手に、己の手で為せる急進的な改革……つまりは、ドライグ王家の打倒を誓った。そして『ディスコード』もディアンの考えに共鳴し、手を貸したんだ」
「……え?」
「ディアンの報告によって、『ディスコード』に意志があることが初めて明らかになった。そしてこの意志は、極めて暴力的な思考……破壊衝動に満ちていたそうだ。故に、己が持つ知識と戦闘の技術をディアンに渡し、ディアンの凶行を許した」
信じられない。
まず、セイルの頭を支配したのはその言葉だった。シュンランとチェインも呆然としているが、ことの顛末を正しく理解しているはずのブランだけは、無表情のままそこに佇んでいた。
信じられない。
確かに、ディスは過激なことを言うこともあるが、あくまでそれは使い手であるセイルを気遣ってのこと。本来は、必要以上の血が流れることを望まない……セイルの知る『ディスコード』とは、そういう剣だ。ガブリエッラの言葉のように、意味もなく破壊や殺戮を好むような人格では、ない。
だが、ディスは、ガブリエッラの言葉を決して否定しない。
沈痛な感情だけをセイルの心の中に流し、ただ、ただ、黙って話を聞いているだけだ。
「ディアンは単独で竜王の一族を虐殺し、蜃気楼閣の爆破を試みたが、結果としてそれは失敗した。ディアンの動きを察したクラウディオたちによって、ディアンは『ディスコード』を奪われ、捕らえられた。
だが、完全に被害が防がれたわけではなかった。人質となっていたクラウディオの妹はディアンに殺され、また、クラウディオ自身も心に深い傷を負った。妹が殺された、ということもあるが、クラウディオにとって、ディアン・カリヨンという男は最も親しい友だったのだよ。そう思っていたのは、クラウディオだけだったのかもしれないが……
その友に、己のあり方全てを否定されたクラウディオは、一時、ディアンと同じように蜃気楼閣を破壊しようとも、考えたらしい」
クラウディオが。セイルは、この時クラウディオが何を思ったのかなど、知ることはできない。ただ、共に過ごしたのは短い間ではあるものの、シュンランに対する優しい視線、セイルに対して投げかけてくる温かな言葉を知る以上、そのような破滅的な考え方を抱くとは思えない人物であった。
そのクラウディオが道を誤りかけたほどに。ディアン・カリヨンという男はクラウディオにとって特別な友であり――友に裏切られた衝撃は大きかったに違いない。
「そんなクラウディオを諌めたのが……当時、クラウディオと共にディアンと戦った、一人の騎士だった。彼は、ほとんど正気を失ったクラウディオの前に立ちはだかり、己が言葉と命をもって、クラウディオの道を正した」
「つまり、クラウディオの眼前で自決した、と」
チェインが、ぽつりと呟いた。セイルは、チェインの顔を見ていなかったから、彼女がどんな気持ちでその言葉を放ったのかは、わからない。ただ、不服そうであったことだけは確かだ。
「正確には、眼前ではなかったらしいがね。騎士は、全てのきっかけである『ディスコード』を拾い上げ、その刃で己の胸を貫き、世界樹に還った。己が主の一人、ドライグという機構の一旦を担うクラウディオに、楽園の未来を託して」
そうか。
セイルの中で、何かが繋がりかけていた。
赤い夢の中で聞いた声。あれは、『ディスコード』を手に己の命を絶った騎士の声だったのではないか。「この世界を、楽園に変えてほしい」……そんな、少年の声が、脳裏に響き渡る。
ディスの様子を伺うと、ディスは、もう、恐怖に震えてはいなかった。心の底で悲しげな響きを奏でてはいたけれど、静かにセイルの中にたゆたっている。それは、望みを胸にこの世を去った一人の騎士への哀悼のようにも、思えた。
「かくして、多大な犠牲を払いながらも、ディアン・カリヨンの狙いは潰えた。
ディアンに対して死罪を望む声は多かったが、それらはクラウディオが全て退けた。感傷などという下らない理由からではない、ディアンは『レザヴォア』の接続者であり、未来視『アーレス』をも保有していた。故に、病による死がもたらされるその時まで、蜃気楼閣のためにその知恵を借りたわけだ。
その際、ディアンはこう言っている。
『近く、その剣は必要となるだろう』
奴には、とうに見えていたのさ。『エメス』が、近い将来楽園を混乱に陥れる未来が。故に、我々蜃気楼閣は『ディスコード』を再び封じ、来るこの日まで、『エメス』の動向を監視し続けたというわけだ」
「だから、『エメス』の襲撃にも、すぐに対応できたんだね」
チェインは、合点がいったと声をあげる。ガブリエッラも、その言葉を肯定するように頷いた。クラウディオの話によれば、シュンランを狙って『エメス』が襲撃してきた際も、致命的な被害を受けることはなかったという。それもこれも、ディアン・カリヨンが全てを予見していたからに違いない。
彼らにとって、『エメス』がもたらす禍は、来てしかるべきものだったのだ。
「で、ディアン・カリヨンとやらは、結局、どうなったんだい?」
「ああ。事件の数年後に息を引き取ったよ。その時のことは、私もよく覚えている。彼は、私の学問の師でもあったからな。彼の凶行を許すことはできないが、それでも……」
ガブリエッラは、そこまで言って、言葉を切った。仮面を押さえ、ゆるゆると首を横に振る。
「いや、これこそ不要な感傷だな。忘れてくれ。
とにかく、これが二十年前の『ディスコードの禍』の全てだ。私の言葉もいささか客観を欠く部分はあっただろうが、あらましとしてはこんなところだ」
話はわかった。
ディアン・カリヨンという男が、『ディスコード』を手に惨劇を起こした。その事実は、事実なのだろう。
けれど、『ディスコード』……ディスは、本当に心からそれを望んだのか。いつも、厳しくも優しくセイルを支えてくれる相棒が、かつて、凶行に走ろうとする男に手を貸したというのか。
ぐるぐる回る思考が、セイルを押しつぶそうとした、その時。
ディスが、きっぱりと言った。
『事実だ。俺が、ディアンに手を貸したことも、それ故に騎士が死んだことも、全て』
空色少年物語