夢を見る。
赤い、赤い夢だ。
その赤は、辺り一面に咲き誇る薔薇の赤か、彼の身を染める液体の赤、か。
――……血?
べったり付着した赤い液体は、明らかに血だ。それを認識した瞬間に、吐き気がこみ上げてくる。血を見るのは、いつになっても慣れない。『ディスコード』を手にするようになった、今でもなお。慣れてはいけないと、思ってもいるから。
だが、これは一体、誰の血だろう。
思っていると、不意に声が降ってきた。
「では」
囁きにも似て、それでいて冷たい空気を貫く声。
「この世界を、楽園に変えてほしい」
楽園、に?
凛としたテノールは、自分もよく知る誰かの声に少しだけ似ている。けれど、この世界はまさしく楽園だというのに、一体『楽園に変える』とはどういうことだろう。それが、どうもわからない。
ただ……わからない、と思いながら、心の何処かは答えを知っているようでもあった。ここは、確かに楽園と名づけられた場所。女神ユーリスの手によって、平穏が約束された地。だが、真実を知れば知るほど、その平穏は矛盾に満ちたものであることに気づかされてしまう。
女神の言葉を疑いたくはないけれど、どうしても、納得できないことが多すぎる。そして、納得のできない世界に対して、納得ができないという主張を突きつけた者もいる。それが一部の異端研究者であり『エメス』であることは、もはや疑いようもない。そのやり方は、決して認められるものではないけれど。
……そして、平穏が約束されていたはずの楽園は、今、争いの渦に巻き込まれようとしている。
胸が微かに痛む。その一端を、己が担っているという責任もまた、ちりちりと胸を焦がす。
そんな気持ちを抱えていると、すうっと、声が胸の中に滑り込んできた。
「誰もが笑って暮らせるような、本当の『楽園』に――」
本当の、『楽園』。
穏やかな声に篭められたものは、ゆるぎない意志。きっと、ほとんどの人は綺麗事だと笑い飛ばすのだろうけど。それでも、その言葉は胸の中にぽっと明かりを灯す。それは、先の見えない闇を晴らすための炎のようであった。
赤い炎は、ゆらゆら揺れる。
赤い夢は、ゆらゆら揺れる。
声の主は見えず、今見ているこれが夢であることも、不思議とはっきりとしている。
けれど、これがただの夢であるとは思えなかった。薔薇の赤、血の赤、炎の赤。世界を彩る全ての赤が、目の奥の奥にまで焼きつくような錯覚――
「……ル」
「ん……」
「セイル、もうすぐつきますよ」
鈴のようなシュンランの声。セイルは重たい瞼を開けて、ほとんど真っ暗な天井に視線を彷徨わせた。目覚めたばかりの頭は、正しく周囲の状況を認識してくれない。
微かに揺れる感覚は、セイルを更なる眠りに誘おうとするが、何とかその誘惑には耐えて、自分が一体何処にいるのか思いだそうとする。
ゆらゆら、揺れる。
地面が、揺れる。
いや、これは地面ではなく床だ。床が揺れる感覚は、何度か経験しているが……そのどれとも違う感覚。風に揺られているのではなく、寄せては返す波に揺られているような。
そうだ、自分は今、船の上にいるのだ。
海の上にあるという禁忌の王国、蜃気楼閣ドライグを目指す、船の上に。
『エメス』の本拠地、『世界樹の苗木』……『シルヴァエ・トゥリス』からクラウディオ・ドライグを無事助け出し、『紅姫号』のシエラ一味と合流したのも束の間、ほとんど休む間もなく近くの港に移動して、クラウディオが呼び出したドライグ行きの船に乗り込んだのだった。
そこまで思い出したところで、シュンランが小さな声で歌を歌い、天井のランプに明かりを灯した。青みがかった白い光が闇を払い、セイルの目にもはっきりと、部屋の全体が見えた。
セイルたちに与えられた部屋には、部屋として最低限のもの――寝台や小さな机、椅子などだ――は置かれているものの、部屋としてはとても狭かった。それもそうだろう、この船は本来、客人を乗せるようなものではないはずだから。
そして当然、シュンランを一つしかない寝台に寝かせれば、セイルは床に寝るしかなかったわけで。壁により掛かるようにして眠っていたのだというところまで思い出し、大きく伸びをする。変な格好で寝ていたせいだろう、体のあちこちが、ぼきぼきと鳴った。
「だいじょぶです?」
「うん。何か、変わった夢を見たような気がする」
内容ははっきりと覚えてはいないけれど、赤、というイメージだけは脳裏に焼きついていた。それを思い出すと、体の内側で何かがざわざわとうごめくような気がしたけれど……気のせいだろう、と思うことにしてシュンランに問う。
「チェインたちは?」
「もう、外に出ているみたいです。行きましょう」
シュンランが、セイルに手を差し伸べ、その手を握り返す。
こんなやり取りも、当たり前になっているけれど……セイルは、考えずにはいられない。この旅の終わりが、近づいているのだということを。
「……セイル? どうしました?」
我に返ると、シュンランのすみれ色の瞳が目の前にあった。大きな瞳の中に映る自分は、何とも間抜けな表情をしていた。
「ごめん、ぼーっとしてた。行こう!」
慌てて、シュンランの瞳から目を逸らして立ち上がる。シュンランは不思議そうな顔をしていたけれど、きっと、セイルが何を考えていたかまでは、わからなかっただろうと、思う。まだ兄との決着はついていない。気を引き締めなければならない時に、終わりを考えている場合ではない。
部屋を出て、狭い階段を上って外に出る。すると、潮の香りを乗せた風が吹き付けてきて、「わっ」と声を出して両腕で自分の体を抱いてしまう。夏に近い緑の月とはいえ、明け方の海上はなかなかに寒い。
だが、白み始めた海上に目を移したその瞬間に、セイルは寒さも忘れて目を見張っていた。
水平線の上に、何かが聳えている。大地もないはずの場所に黒々と聳えるそれは、確かに巨大な『城』のように見えて……
「俺も、この目で蜃気楼閣を見るのは初めてだな」
いつの間にか横に立っていたブランが、氷色の目を細めて言う。すると、今までうんともすんとも言わなかったディスが、ざわりとセイルの中で波を立て、言った。
『この目で、な。つくづく手前らしい言い方だよ』
「そう?」
相変わらず、ディスとブランの間の会話はセイルからするとよくわからない。ディスが、セイルの知らないブランの何かを知っている、それだけは確かなことなのだろうけれど。何となく、置き去りにされているみたいで、不愉快だ。
ディスは、そんなセイルの気分の変化に気づいていたのか、少しだけ申し訳なさそうな気配をかもし出した。それならきちんと説明してくれればいいのに、と思うけれど、ディスにその気はないようで、それきり黙るだけだった。
もう少し、はっきりと伝えた方がいいだろうか、と口を開きかけたその時、シュンランがセイルの手をぎゅっと握った。
「ドライグ……久しぶり、です」
その声に、何かを懐かしむような思いが篭っているのに気づき、セイルは思わず問い返していた。
「そっか、シュンランはあそこから来たんだっけ」
「はい。素敵な場所です。しかし」
シュンランはふと表情を曇らせて、操舵室からチェインと一緒に顔を出したクラウディオに問いかける。
「わたしは、聞いていませんでした。わたしとディスを狙って『エメス』が攻めてきた後、皆は無事ですか」
クラウディオは、潮風に柔らかそうな金髪を揺らし、細い縁の眼鏡を押し上げた。その下の目は、薄闇にもはっきりとわかる赤。今までも赤い瞳を持つ人を見たことはあったが、ここまで鮮やかな紅の瞳は初めて見る。
「ああ、騎士の中には負傷した者もいるということだが、死者はゼロ。竜王も怪我一つないそうだよ」
「それは、よかったです……」
シュンランは心底ほっとしたような顔をした。本当に、シュンランにとってドライグの住人は大切な存在のようだ。
……それもそうだろう。記憶を失った状態で目覚め、周りのことが何一つわからない心細さを埋めてくれたのが、ドライグの人々だったのだ。そして、間接的とはいえ、その彼らを危機に追いやってしまったという責任も感じていたに違いない。
クラウディオはそんなシュンランの白い髪にそっと指を通した。シュンランはくすぐったそうに身じろぎしながらも、嬉しそうな顔でされるがままになっていた。セイルの前では見せたことのないシュンランの表情を見ていると、ちょっとだけクラウディオが羨ましくなる。
それにしても、クラウディオの手は高貴さを感じさせる立ち居振る舞いに似合わぬ、やけに骨ばった、ごつごつとした手をしている。
『ドライグは、王家こそが最も優秀な異端研究者であり、技術者だ。それに、クラウディオは武器も扱うからな。そりゃあ手は酷使するさ』
「ディスも、クラウディオのこと、よく知ってるんだ?」
声に出して問い返すと、ディスが肯定の答えを返す前に、クラウディオがはっとこちらを向いた。その顔からは、一瞬前まで浮かべていた穏やかな表情が消えていて、セイルは思わず身構えてしまう。
それで、クラウディオも初めて自分がどんな顔をしていたのか気づいたのだろう、口元を緩めて頭をかいた。赤い瞳の鋭さは、消さないままに。
「セイル君」
「は、はい」
「君の体の中に、『鍵』……『ディスコード』がいるのかな」
ディスが、セイルの体の中で震えたのがわかった。そこから伝わる思いは、怯え。ディスらしくない反応に戸惑いながらも、嘘をつくだけの理由が感じられなかったため、こくりと頷く。
「本当は、兄貴に渡すはずだったんですよね。すみません、俺が勝手に使っちゃって」
「いや、それはいいんだ」
意外にも、クラウディオはあっさりと首を振って言った。
「 『鍵』は、シュンランを『エメス』から守ってくれるだけの力を持つ、心ある使い手に渡りさえすればよい、そう思っていたからね。そして、私が知っている中で思い当たる使い手が、君の兄、ノーグ君であっただけさ」
「……でも、兄貴は……」
兄、ノーグこそが『エメス』を従える『機巧の賢者』だ。シュンランを狙い、蜃気楼閣ドライグを襲撃したのも兄の指示によるものではないか。そう思っていると、クラウディオはそっと、先ほどシュンランにやってみせたのと同じように、セイルの空色の髪にも指を通した。その感覚は、何となく……遠い昔、兄に頭を撫でられた時のものと、似ているような気がした。
「すぐにわかるさ」
ぽつり、と。クラウディオは言った。セイルには、全く意味がわからない呟き。しかし、その意味を問いただすことはできなかった。クラウディオが次に放った言葉が、セイルの意識を完全に引きつけてしまったから。
「それより、君は『ディスコード』の意識に、影響されていないみたいだな」
「ディスの、意識?」
「ああ。『ディスコード』は、強烈な破壊衝動に囚われた剣のはずだからね」
――絶対に、そんなことはない。
思いながら、セイルはつい左手を見つめてしまう。
確かに、出会った当初は口が悪くて好戦的で、怖いナイフだと思ったが、実際にはセイルのためを思って、わざとそう振舞っていた、と今になれば理解できる。好戦的であったのも、あくまで『セイルの代わりに戦う』ことを己に課していたからだ。
本来のディスは決して争いを好まず、どちらかといえば頭……『ディスコード』に頭なんかないけれど……を使って物事を解決する方が得意なように見える。そして、できる限り人を傷つけたくないというセイルの意志にも真摯に応えてくれる、誠実な剣であるはずだ。
そんなディスのどこに、破壊衝動があるというのだろう。
思いながら、セイルは何とか言葉を選びつつ言う。
「俺の知ってるディスは、ちょっと厳しいしたまにむかつくけど、それでもすごく優しくて……俺と一緒にいてくれる、俺のことを認めてくれる、大切な相棒です。影響はされたかもしれないけど、でも、そんな恐ろしいものじゃないと……思います」
息を殺し、セイルとクラウディオの会話を見守っていたディスが『何か一言多くね?』と不満げな声を立てるが、それは黙殺してクラウディオの表情を窺う。クラウディオは、唖然とした、という表現がよく似合う表情でセイルを見下ろしていた。一体彼が何を考えているのかはわからなかったが、その唇が、小さく動いたことだけは、見て取れた。
それが、セイルには、
――信じられない。
と言ったように、見えた。
体の内側のディスが、再び蠢いた。恐怖に、震えるように。
セイルとクラウディオの間に沈黙が流れる。視線だけを交錯させたまま、唇を閉ざし。波の音だけが耳の奥の奥まで響いている。相対するクラウディオの表情は、あくまで険しい。
クラウディオには、ディスの声が聞こえている様子はない。しかし、元々『ディスコード』は蜃気楼閣に封印されていたものだ、王族たるクラウディオが、セイルの知らないディスに関する何かを知っていても、全くおかしくない。
おかしくない、けれど。
「クラウディオ、そう警戒なさんな」
気まずい沈黙に水を差したのは、ブランの軽い一言だった。ただ、言葉の軽さに反して、ブランは笑ってはいなかった。生真面目な顔で、クラウディオの肩を叩く。
「んな、恐れるようなもんじゃねえよ。『ディスコード』自身には何もできねえ。使い手がそうと望まない限りは」
クラウディオは何かを反論しようとした。が、ブランに睨まれて言葉を飲み込んだようだった。そして、未だに訝しげな表情を浮かべているクラウディオを見上げたシュンランが、はっきりと言った。
「ディスが、優しいのは本当です。ディスがいてくれたおかげで、わたしも、セイルも、ここまで来ることができました。それは、ディスが『鍵』だからではありません。ディスが、ディスだったからです」
セイルの中で、三度ディスが身じろぎしたけれど……今度は、クラウディオに対する怯えからではなく、単に恥ずかしくていたたまれなくなっただけ、ということがはっきりしていた。ディスは、褒められるのに慣れていない。
クラウディオは、困ったような顔でシュンランを見下ろしていたが、やがて深々と息をついて、言った。
「なるほど。『鍵』は、随分と君たちの助けになったようだ」
しかし、と。眼鏡の下の目が細められた。赤い瞳に宿っているのは、セイルの瞳の奥の奥に潜むディスを探る光。
「聞こえているのだろう、『ディスコード』 」
囁くように、しかしはっきりとセイルの耳に届いた言葉は、
「私は、あの日を忘れてはいない」
凍りついた、響き。
すると、全身の血液が逆流するような感覚と共に、セイルの唇が勝手に動いていた。
「俺だって」
搾り出された声は、掠れてこそいたけれど、強い熱を篭めて。くらくらして、ともすれば闇の中に落ちていってしまう意識を現実に繋ぎとめるために、拳を握り締め、足を踏みしめて。
セイルは……否、ディスは、叫んだ。
「忘れてねえよ。忘れられるわけねえだろ!」
刹那、セイルの脳裏に閃くのは、赤い、赤い世界。夢の中で見たはずのものが、現実の視界を覆う。そして、クラウディオの姿に、今よりもずっと若いクラウディオの姿がだぶって見える。若い日のクラウディオなど、セイルは知るはずもないのに。
その、遠い日のクラウディオは……唇を噛んで、長い筒状の武器を、真っ直ぐこちらに向けていて。
これは、もしかして。
――ディスの、視界?
気づいた途端、全身から力が抜け、真っ赤に染まった視界も元に戻る。正常な感覚を取り戻し、一瞬だけディスに奪われていた体の主導権も取り戻したセイルは、瞼を閉じて、開く。
目の前にあったクラウディオの表情が、明らかな戸惑いに揺らいだのを見て、セイルは慌てて弁解する。
「ごめんなさい、今、一瞬ディスが勝手に出てきちゃって」
「……そうか、これが『ディスコード』、か……」
クラウディオは、軽く首を振って言った。
「すまない、セイル君。こちらこそ、変なところを見せてしまった」
「い、いえ。ただ、その……」
聞いていいのか、わからなかった。だが、どうしても、今見た光景のことが気になってしまって、セイルはクラウディオに問いかけていた。
「クラウディオさんは、ディスと、何かあったんですか?」
「それは……」
ちらり、と。クラウディオはブランに視線を走らせる。ブランは、氷色の目を細めて言った。
「あの事件は、今回の一連の出来事にも直接ではねえが関連してるだろ。俺はこいつらに伝えることに賛成だ」
「そうか。ならばセイル君、そして、シュンラン。君たちには、長い話をすることになるだろう。過去に、我が国……蜃気楼閣ドライグで起こった一つの事件の顛末だ」
ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる、巨大な城を前にして。
セイルは、やけに静かになってしまったディスの気配を探しながら、ごくりと唾を飲みこんだ。
かくして、蜃気楼閣の扉は開かれ……セイルたちを乗せた船は、巨大な城に、飲み込まれていった。
空色少年物語