突如会議室に響いた歌うような声に、全員がはっとそちらを見る。
唯一、声を放った本人……シュンランだけが、すみれ色の瞳を見開いて、呆然とも言える表情のままそこに座っていた。
『シュンラン?』
「 『森の塔』は、研究塔であり、大地に生命を育むための装置です。世界をもう一度始めるための、終わりゆく世界を助けるための、希望の塔です……わたしは、そう、聞きました」
思い出したのか、と。ディスが掠れた声で問う。だが、シュンランはゆるゆると首を横に振った。
「覚えていた、です。わたしのことは、何一つ、思い出せないままです。ただ、わたしの知っている世界は、滅びようとしていました……それだけは、今、はっきりと思い出せました」
滅びる? 世界が?
セイルにはシュンランの言わんとしていることがさっぱり理解できない。そんなセイルの思いとは裏腹に、シュンランは熱に浮かされたような口調で言葉を続ける。
「わたしは、世界を助けようとしていました。どうして、どうやって、それは思い出せません。しかし……世界は、滅びようとしていたのです。今、ここではない、わたしが眠る前の、どこかで。いつ、どこで?」
頭を押さえ、痛みを堪えるように眉を寄せる。実際に、痛みを感じているのかもしれない。今にも飛び出してその手を握ってあげたい、と思ったが、体の支配権はディスにある。体の内側でおろおろすることしかできないセイルだったが、その時、ブランが言った。
「シュンラン、落ち着け。焦って思い出そうとするこたねえ、深呼吸だ」
シュンランは一瞬ひゅっと息を飲んだが、すぐに言われた通り深く息を吸い、吐いた。そうすることで心が落ち着いたのだろう、それ以上苦しげな表情を見せることはなかった。少し肩を上下させながら、シュンランはすみれ色の瞳で、ブランの氷色の瞳をまじまじと見据える。
「……? ど、どうしたのよ」
いつもじっとこちらを見つめてくる割に、もしかすると相手から見つめられることには慣れていないのかもしれない。何とはなしに上ずった声を上げるブランを、シュンランは無言のままじっと見つめ続ける。
そんな二人を呆れたような視線で見やったディスは、ひとまずチェインに顔を戻して言った。
「あー、まあ、何だ。世界が滅びに瀕していた、そういう時期が確かにあったんだ。空気は汚染され、海は枯れ、大地の上に人が生きていくことも難しい、そんな時期が。『シルヴァエ・トゥリス』ってのは、そんな世界を変えるための場所で、それに必要な機巧仕掛けの装置……と考えてくれりゃいい」
「けど、女神の神話によれば、この世界は、元々海に覆われた世界だったんじゃないのかい?」
そう、セイルも聞かされてきた。この楽園に住む者なら誰だって知っている、創世神話だ。闇に包まれたこの場所に降り立ったユーリスは、まず光を生み出した。光に照らし出された世界は、静寂の海に覆われていた。故に、女神は己の体の一部たる白い種を植えることで、世界樹を……魔法の源であるマナと、生物の源である大地を作り出したのだと。
しかし、ディスはチェインの言葉に対してかぶりを振る。
「俺の認識は違う。荒廃した世界に女神ユーリスが降臨することで、『楽園』と呼ばれる、青い海に囲まれた世界が『初めて』誕生したんだ。女神は世界を確かに救済した……だが、同時に滅びゆく世界の歴史を隠して偽の創世神話を広めたのも、隠した歴史を追究することを禁じたのも女神だ」
「仮にそれが事実だとしても、何故?」
何故。チェインが放ったそれは当然の質問だとセイルは思う。今ディスが語った歴史が事実だとしても、女神がその事実を覆い隠して創世神話を捏造し、古代の技術を禁忌とする理由は何処にもないように思えた。だが、それに対してはディスも肩を竦めるだけだった。
「そいつは俺の知ったことじゃねえ。俺は実際にその場に立ち会ったわけでもなきゃ、詳しい解説をされたわけでもねえ。今話したことだって、多分に俺の推測が混ざってる。ただ……シュンランの様子を見る限り、あながち的外れってわけでもなさそうだな」
シュンランは、そう言われて初めてディスの方を見た。セイルの意識もディスの話に向けられていたため、今まで気づいていなかったのだが……どうやら、この瞬間までブランとずっと見つめ合っていたらしい。シュンランの視線から解放されたブランが露骨に胸を撫で下ろしたのが目の端に映る。
すみれ色の瞳をぱちくりさせたシュンランは、軽く首を傾げて言った。
「しかし、『森の塔』は世界樹と何の関係があるですか? 詳しいことは思い出せないですが、わたしの知っている『森の塔』は、機巧仕掛けではありますが、ただの塔だと思いました」
「そうだな。証明するための材料は何一つねえが……俺は」
言葉を切って、窓の外に銀の視線を向けるディス。森に囲まれた隠れ家からは、夜ということもあって空に向かって聳える世界樹の一部すらも見ることが出来なかった。それでも、その向こうにある世界樹を透かし見るようにして、ディスは、言う。
「世界樹こそが、『シルヴァエ・トゥリス』の一つだと思ってる」
「何、だって?」
チェインが、がたりと椅子を鳴らす。だが、ディスは窓からチェインに視線を戻し、半ば睨みながら言う。
「ここだけの話、『ディスコード』と『コンコード』は『シルヴァエ・トゥリス』の制御装置として造られた代物である……俺は、そう教えられたんだ。そんな禁忌の装置をあえて『世界樹の鍵』って呼ぶんだ、鍵を必要とする『世界樹』こそが『シルヴァエ・トゥリス』であるはずだ」
それは、セイルも初めて聞く言葉だった。心の内側で息を飲み、そっと呼びかける。
『ディス……それって、本当なの?』
「今まで確信は持てなかった。俺は、今まで世界樹そのものに触れたことがなかったからな。だが、『シルヴァエ・トゥリス』を『苗木』って呼ぶなら、世界樹そのものだって同じものから発生したと考えるのが妥当だ。違うか」
ディスの声は静かではあったが、その中に熱のようなものが篭っているように感じられた。そして、ディスと繋がっているセイルには、その言葉に嘘がないこともはっきりとわかった。
ディスは、本当に、心から、世界樹が禁忌の塔から生まれたのだと思っている。誰もが忌み嫌う異端の技術によって造られたものが、楽園の支えであると確信している。
けれど、けれど――!
「信じられない」
ディスを見据えたチェインが、はっきりとそう言葉にした。その言葉は、セイルにとっては当然のものだったが、ディスにとっては意外なものだったのだろう。目をぱちくりさせて、戸惑いの表情を浮かべる。
ただ、ディスが何か言葉を放つ前に、チェインが己の言葉を重ねていく。
「そんなことを言われて、すぐに信じられると思うかい? いや、アンタや『エメス』の連中は信じられるんだろうね」
なら、と言い掛けたディスの言葉は、すぐに飲み込まれることになる。
「けど、私には無理だよ」
チェインが放った、その一言によって。
「確かに、禁忌機巧のアンタが『世界樹の鍵』って呼ばれる理由は不思議に思ってた。きっと、神殿が何かを隠してるってことも、わかってはいたよ。けど……この世界を形作ってるものが、女神ユーリスとは相反する禁忌で、神話が女神ユーリスの嘘だったなんて言われても、信じられるわけないじゃないか」
「だ、だが……」
ディスは何とか言葉を紡ごうとしたが、口をぱくぱくさせるだけで声が出てこない。色々な考えが脳裏に渦巻くのがセイルにも伝わってきたが、その全てが言葉として纏まってくれない。
チェインもまた、唇を噛み、何とも形容しがたい表情でディスを睨んでいた。いや、睨んでいたわけでもないのかもしれない。セイルも、もし表に出ていたとすればチェインと全く同じような表情をしている……そう、自分自身で思ったから。
どうして、こんな気持ちになるのだろう。
嘘ではない、とわかっているディスの言葉なのに。こうまで、苛立ちが胸の中に湧き上がってくるのだろう。しかもそれは、ディスに向けたものというわけでもなく、ただただ、何処にもぶつけられないもやもやとした、しかし確かな熱を持った感情。
場が、一瞬、しんと静まり返った。そして、その沈黙を破ったのは、ブランが無骨な手を打ち鳴らす、乾いた音だった。
「まあまあ、少し頭を冷やそうぜ、二人とも。こっちから振った話ではあるが、ちょいと論点がずれてきてる」
ディスとチェインが、同時にブランを見る。ブランは無表情のまま、淡々と言う。
「俺らが伝えたかったのは、賢者様が潜んでて、クラウディオが捕まってる『世界樹の苗木』、『シルヴァエ・トゥリス』が何なのかってことだ。世界樹やら楽園創世やらの認識が事実か否かは、今この瞬間はそこまで重要じゃねえんだ」
確かに、ブランの言うとおりではある。謎を謎のままにしておくのは気が進まないことではあるが、現在の論点は楽園創世や世界樹に関する話ではない。『エメス』の拠点についての話であり、それ以上でも以下でもない。
それでも、まだ納得の出来ていない様子のチェインに対して、ブランは少しだけ苦笑にも似た表情を向ける。
「チェインも少し落ち着こうや。ディスはあくまで、ディスの信じる事実を語ったに過ぎねえ。別に姐御が持ってる認識を完全否定する気はないはずだ」
ぐ、と。チェインは息を飲む。吐き出そうとしていた言葉も一緒に飲み込んだのかもしれない。そんな彼女は眼鏡の下の青い瞳でブランをしばし見つめた後、ぽつりと言った。
「ブラン、アンタはどう思ってるんだい。やっぱり、ディスと同じ意見なのかい?」
「俺様は異端研究者よ? 何もかもを疑うのが正しい立ち位置。だから、ディス寄りではあるけど、ディスの言葉を鵜呑みにするつもりもねえ」
即答だった。この答えはセイルも予測していなかったし、チェインも同様だったのだろう。言葉を失ったままのチェインの前で、ブランは微かな笑みを唇に浮かべて言葉を続けていく。
「確かにディスの言う通り、俺様も女神の神話には嘘が多いとは思ってらあね。世界樹が禁忌の代物だって話も、あっておかしくねえとは思ってる。ただ、俺たちが聞かされてきた楽園創世の全てが荒唐無稽な嘘とも思えねえ。女神や神殿がそう言い伝えるのだって、それだけの理由があるんだろうよ……って答えで満足か?」
「満足とは言えないね。でも、アンタのお陰で落ち着いたは落ち着いたよ」
チェインは軽く肩を竦めて苦笑する。ブランは「そ、よかった」とほんの少しだけ笑いを零してみせた。その表情がやけに穏やかで、セイルまで一瞬前までの焦燥感を忘れ、すっと心が軽くなったのを感じた。
まだ、戸惑いの感情をあらわにしていたディスに対し、チェインは言った。
「悪いね、ディス。理屈はわからないでもないんだけど、どうしても、アンタの話はすぐに認められそうにはないんだ」
「や、俺の方も、色々考えが及んでなかった。こちらこそ、混乱させちまってすまん」
ディスは素直に頭を下げた。何だかんだで、ディスはチェインに対してはやけに素直なところがある。それから、少しだけ半眼になって再び無表情を取り戻していたブランを見据える。
「しかし、お前にフォローされるとは思わんかったぞ、ブラン」
「俺様とお前さんとでは立ち位置がちょいと違う。己の立つ場所、楽園のあり方を揺るがされんのが気持ちいいことじゃねえってのは、何となく想像できる。想像が正しい保障はねえが」
「そうか。お前も、あくまでここの住人だもんな。そんな当たり前のことも失念してたよ」
「はは、忘れられて当然かもな。俺様は、踏み込むべきじゃねえ世界に、足を踏み込みすぎちまった。常人の感覚に戻ることは、きっと二度と出来ねえ」
でも『知る』ってことはそういうことよね、と。ブランは言って目を細める。笑ったのかもしれなかった。それに対し、ディスは何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。ただ「それじゃ、俺は戻るわ」とだけ言って、セイルと交代してしまった。
セイルは己の思うままになった瞼をぱちぱちさせて、ディスから体の主導権が戻ってきたことを確認する。
ただ、心の奥底に沈んでいったディスの意識は、何処か不安定に揺らめいていた。そして、顔を上げて見たチェインの顔もまた、胸の奥に揺らめくディスの心と同じように、不安定なものを感じさせた。
理屈はわからないでもない、けれど、認められない。
ディスが語った内容は、まさしく、セイルにとっても同じ感想を抱かせるものだった。その全てが真実であれば、楽園の常識はたやすく覆される。自分たちの信じてきたものを、完全に否定されたも同然だ。
もちろん、今までもそのようなことはあった。禁忌機巧である『ディスコード』と出会い、異端を信奉する『エメス』と対峙しているうちに、今まで自分たちが当たり前だと思ってきたことが、決してそうではないのだと突きつけられ、考えさせられたことは多い。
だが、今、セイルが知ってしまったことは、ただ「考えさせられる」では済まない、もっと根源的なこと。いや、本当は……今まで突きつけられてきたことも、元を辿ってみれば同じ場所に辿りつくはずだ。ただ、考えようとしなかった、だけで。
重苦しい沈黙が、場を支配した。
セイルの口から言えることなんて、何もなかった。一体何を言えばよいのか、さっぱりわからなかったのだ。
きっと、誰もがそうであったのだろう。
けれど、先ほどと同様、全く空気の重さを気にした様子もなく、ブランは枯れているにも関わらずよく通る声で言う。
「お前ら、黙ってる場合じゃねえぞ、こっからが本筋だ」
空色少年物語