チェインとシュンランが、驚きの表情を浮かべてセイルを見る。ただ一人、ブランだけが、表情を失ったままに真っ直ぐにセイルを見据えていた。全ての視線を受け止めて、セイルは少しだけ深呼吸して、まだ上手く形を成さないままの言葉をゆっくりと組み立てる。
「多分それは『悲しい』って気持ちだけじゃなくて……何て言えばいいんだろう。ブランって、何があっても、ここが動いていない感じがするんだ」
言葉を紡ぎながら、自分の胸に手を置く。
――心。
セイルは、心の色を見るという老女のことを思い出していた。彼女と出会った時、ブランは己の心を暴かれることを望まなかった。ただ、それは何も己の心の色を知りたくないわけではなく、「己を心得ているから」であると老女は言っていたはずだ。
そして、よく見ていれば自ずと理解できることだ、とも。
あれ以来、老女の言葉が微かな棘を伴ってセイルの胸に引っかかっていたけれど……ブランとの対峙を通して、その事実が具体的な形を伴ってつきつけられた。そう、感じられたのだ。
果たして、ブランは小さな頷きをもって、セイルの言葉を肯定した。
「何だ、バレてたのな……そうだ、俺様は人の心、正確には『感情』がわからんのよ」
言いながらブランが浮かべた笑顔は、やはり笑顔としては致命的に何かが欠けていた。心の篭らない、そもそも篭めるだけの心を持たない彼なりの、形だけの笑顔。
「喜び、悲しみ、怒り。そういうもんが俺には理解できない。誰のものであれ、な」
だから、ブランはセイルに対して言ったのだ。
『事実、予測、行動、結果。それが俺を構成する全てだ』
――と。
あの時、セイルは「何かを思うだけの心など必要ない」という宣言と捉えて酷い悲しみを覚えたが、そうではない。ブランは己を構成する要素に「心」が存在しないという、ありのままの事実を語っていたに過ぎなかったのだ。
セイル、シュンラン、そしてチェインはただ、そんなブランを見つめていることしか出来ない。ブランは三人の沈黙をどう捕らえたのか、微かに思案するように顎に指を当てて言う。
「いや……『理解できなくなった』と言った方が正しいか」
「どういうことだい?」
チェインの鋭い問いかけに、ブランは冴えない笑みを浮かべたまま答えた。
「俺様だって、昔からこうだったわけじゃねえのよ。笑うのは昔から苦手だったが、悲しい時には泣いたもんだし、いつも怒ってたような気もする……それもこれも、今となっちゃ遠い『記憶』に過ぎないけどな」
「なら、どうして……」
「なーに」
セイルの言葉を遮り、ブランは長く伸ばした己の前髪を無造作とも思える動きでかきあげた。北方の特徴である金茶の髪の間に垣間見えたそれは――頭を穿つ深い傷跡。
思わず息を飲む三人に笑いかけたブランは、
「こういうこと」
と、指先を銃の形にして己の頭に向けた。
「まさか……撃ち込まれた、ってことかい?」
チェインの声は、微かに震えていた。セイルも、背筋に冷たいものが走るのを抑えられないでいる。いくらなんでも、これだけはわかる……その銃弾が、本来ならばブランの命を奪っていてもおかしくなかった、ということだけは。
しかし、ブランは笑う。面白いとも思っていないはずなのに、笑い続ける。
「そ。しぶとく生き延びたんだが、いくつか後遺症が残っちまっててさ。これもその一つだな」
とはいえ、とブランは肩を竦める。
「人の心がわからなくたって、ただ生きるだけならそんなに困らなかったんよ。笑ってるふりさえしてりゃとりあえずは誤魔化せるしさ」
――だが、今回ばかりはどうにもならなかったな。
ブランは言って、笑顔をすっと消した。顔の造形はいたって平凡でありながら、酷く冷たい、作り物のような無表情のままに、頭を下げる。
「何もかも、何もかも。お前らに対して理解を求めず、かつお前らへの正確な理解を欠いたままでいた俺の過ちだ。己の異常を理由にして許しを請うつもりはねえし、許しが欲しいわけじゃねえが……それでも、悪かった、と言わせてくれ」
それから、とブランは顔を上げ、抑揚を欠いた平坦な声音で言う。
「俺様は、これ以上お前らの役には立てねえ」
「ど、どうして?」
セイルは慌ててソファから身を乗り出す。対するブランは氷河の色でセイルを見据え……薄い唇を、開く。
「未来が、見えねえのよ」
「え?」
「お前さんが俺様の見た未来を覆してから、『アーレス』に未来が映らなくなった……この状態じゃ、まともに賢者様とやり合うことも出来ねえ」
目の前に無骨な手を翳し、お前ならわかるだろ、とセイルに同意を求めるブラン。
確かに――セイルたちが求める『エメス』の長、『機巧の賢者』ノーグ・カーティスもまた、ブランと同様に未来を見る瞳を持つ。彼に確実に迫るためには、未来を読み合い、読み勝つことが必須だ。
だが、ブランが切り札である未来視『アーレス』を失っているとすれば、正攻法でノーグに近づくことは難しくなる。
その上、ブラン自身が『アーレス』に依存していることは、先の戦いで明らかだ。あらゆる局面で天才と言える能力を持つブランではあるが、それらを更に上手く扱うために未来視を併用していたブランにとって、未来が見えないという事態に戸惑いを隠せないのも当然と言えた。
けれど、ブランが抱えているものは、それに留まらないようにセイルには思えた。心が無い、と言うブランだけれど、その冷たい瞳の奥には重たい影が揺らめいているように、見えた。
「治らないの?」
「さあな。だがこれ以上今の俺様と一緒にいてもお前らに利はねえ。むしろ、俺様が足を引っ張るだけだ」
折角連れて来てもらったところ悪いけどな、とブランは微かに口の端を歪める。そんなブランの様子を見て、チェインがぎっとブランを睨みつける。
「いつからそんなに弱気になったんだい、ブラン。アンタがノーグを追い詰めるんじゃなかったのかい」
「ああ、そのつもりだった。そのつもりだったが……実のところ、俺の手で奴を追い詰めることには意味を感じられなくなっちまってるんだ。とっくのとうに、な」
「アンタの仲間を奪って、アンタの命を奪おうとした相手だろう? アンタの心を壊したその傷だって、奴の手によるもんじゃないのかい!」
チェインは必死に叫ぶ。ブランは冷たい声で「そうだ」と言って、淡々と言葉を続ける。
「その事実に怒りも湧かねえのよ。やる気も失せるさ」
「……っ」
チェインは何かを言おうと唇を開きかけたが、見上げたブランの虚ろな瞳から視線を逸らし、唇を引き締めるしかなかった。決して、言葉では届かない。チェインもまたそれに気づいたのだろう。
ブランの態度は、いつしか、何もかもを拒絶するようなものに変わっていた。それは『白竜の翼』でセイルと対峙した時と全く同じだった。
ああ。セイルはぎゅっと胸を押さえる。この気持ちは何だろう。もやもやとした何かが心の中に渦巻いている。
そうだ……これは、もどかしさだ。
ブランの言葉を聞いていると、もどかしくて仕方ない。
ブランはわかっていない、人の心や自分の心、それだけではない。もっと根本的なことを、見失ってしまっているのだ。それに気づいた時には、セイルは唇を開いていた。
「違うよ、ブラン。ブランが未来を見ることが出来るから、俺たちを守ってくれるから、俺たちは一緒にいたわけじゃない」
「……?」
「出会いは色々で、思うこともちぐはぐだったけれど……兄貴に、『機巧の賢者』ノーグに会う、それだけはお互いに譲れないものだったから、俺たちは一緒にいられたんだよな」
「そうだ。そして、お前らはそれを続けて、俺は抜ける。それでいいじゃねえか」
「違うんだ。俺が言いたいのは……目的は、きっかけに過ぎないってこと」
怪訝な顔をするブランを、セイルは真っ直ぐに見下ろす。自分でも上手く説明できないこの感情を、そもそも感情が理解できないブランに伝えることが出来るかどうかはわからないけれど、まず伝えようとしなければ、絶対に伝わらない。
それが、この旅を通してセイルが理解したことの一つ。
それを教えてくれた一人が、紛れもなく、目の前の男であったはずだ。
「シュンランと出会って、ディスの使い手になってから、色々あった。ブランのこと、最初はすごく怖かった……今もちょっと怖いけど。でも、それ以上に、信じてる」
「信じて……?」
「そう、信じてる。そりゃあ、色々隠してたり、今回みたいに勝手に暴走したり、ちょっとむかっとすることもあるけどさ」
『ちょっとどころじゃなかっただろ、あれは』
ディスの茶々は、とりあえず聞かなかったことにして。
「でも……ブランが、誰よりも真っ直ぐで優しい人なんだってことはわかったから。だから、俺は、これからもブランが俺たちを正しく導いてくれるって、信じてる」
「は? 優しい? 俺が?」
セイルの言葉は、ブランにとっては意外なものだったのだろう。何処か調子っぱずれた声を上げる。
「何処がよ。俺様、お前らを思いやるだけの理由も能力もねえし……」
「もし、ブランが本当に誰の心もわからないなら、『紅姫号』で俺たちを捕まえた地点で、『ディスコード』を持っていって、シュンランを神殿に保護させたはずだよ。俺と勝負する理由なんて、何処にもなかったはずだ」
「それはお前も知ってる通り、俺様とディスの間で賭けをしたからだ。それが無きゃ、とっくに実行に移してたさ」
ブランは、セイルの言葉を聞いて大げさに肩を竦めてみせる。確かに、ディスもブランもそんなようなことを言っていた、はずだ。ただ、その詳しい内容自体は教えてもらってはいない。セイルは首を傾げて問いかける。
「その賭けって、どういう内容だったの?」
「それを言う理由はねえな。俺様にとって不都合なことだもの」
しれっとした口調で言い放つブラン。ブランが言いたくないことなのであれば仕方ないかな、と思うセイルだったが、セイルの内側でディスがかくんと顎を落とした。一体どうしたのだろう、と思う間もなく、ディスはセイルの体を乗っ取ってブランの胸元を掴んで乱暴に引き寄せる。
白い部分の多い目を丸くするブランに、ディスは額がぶつかりそうになるほどに顔を寄せ、地の底から湧き出るような声を立てる。
「おい、俺様ブラン様よぉ……賭けは俺の勝ちなんだ、約束は守るんじゃなかったのかよ? 言ったよな、俺が勝ったら全部ぶっちゃけるって言ったよな?」
「負けた以上約束は守るぜ。だが、いつ約束を果たすかまでは取り決めてねえ。違うか、『ディスコード』?」
言うブランの口元が笑みに歪められる。ディスは唖然とした様子でしばらく口をぱくぱくさせていたが、やがてブランの胸元を掴んだまま前後に激しく腕を振る。
「っつあああ、だから手前が嫌いなんだよ俺はっ!」
「ははは、乱暴はよくないぜえ」
ぐらぐらと揺らされながら、ブランは気の抜けた声を立てるばかり。ディスは「むきゃあああ」と奇声を上げながら思い切りブランを揺らし続けていたが、それも不毛であるとわかったのだろう、突然突き飛ばすようにブランを手放し、びしっと指をさす。
「いいか、ブラン! 手前が屁理屈捏ねて逃げんのは俺の知ったこっちゃねえ、だがそれで困るのは手前じゃねえ、手前が守りたいって思ってる全てなんだ、それだけは理解しろ!」
ブランはその指先を見つめ……不意に、微笑んだ。
その表情は彼らしからぬ穏やかさに満ちたものだった。セイルは驚き心の内側で息を飲むが、それはディスも同じだったのだろう、今度はブランの代わりに目を見開く番だった。
「そいつは今回嫌ってほど理解した。大丈夫だ、絶対に約束は守る」
ブランの声は何処までも静かで、全てを信じさせるだけの力に満ちていた。
それを聞いたディスはあからさまに舌打ちして、セイルの内側に戻り際、はっきりと声に出して言った。
「ああそうさ。それが、全てを守るために出来る唯一のことだ」
ブランは「手厳しいな」と苦笑し、無言で意識の底に沈んでいったディスと交代で表に戻ったセイルに向かって言った。
「ま、そんなわけで、だ。別に俺様は優しいからお前の望みを叶えたわけじゃねえってこと。お前が信じるに値するような奴じゃねえよ」
「……それは、ブランが決めることじゃなくて、俺が決めることだよ」
む、とブランが言葉を詰まらせる。セイルは畳み掛けるように言葉を重ねていく。
「賭けのことはよくわからなかったけど……やっぱりブランは優しいんだよ。ブランがそれに気づいてないだけなんじゃないかな」
「どういう、ことだ?」
「笑ってるふりじゃなくて、そうやって笑えるんじゃないか。そんな顔で、守るって言えるんじゃないか。そういう人を、俺は、優しいっていうんだと思う。そういうブランを、俺は、信じてる」
言って、セイルはブランの前に手を差し伸べる。
今まで、一緒に歩んできた。四人一緒に、兄の元にたどり着けるのだと思い込んでいた。そうして、こうやってブランに一度裏切られて、初めて気づいたことがある。
「未来が見えないとか、心がわからないとか、そんなこと、どうだっていいんだ。俺は、ブランと一緒に行きたい。他の誰でもない、俺が信じたアンタじゃないと駄目なんだ」
ブランにとっては、セイルの言葉は完全に理解を超えていたのだと思う。呆然と見上げるばかりのブランに笑いかけて、セイルは言葉を続ける。
「もちろん、シュンランがいなくちゃ意味がないし、チェインが支えていてくれるから安心して前に進める。ディスが俺を相棒として認めてくれたから、俺は今、こうやってアンタの前に立っていられる」
それは、全てシュンランと『ディスコード』と出会ってから築いてきたもの。
深呼吸をして、落ち着いて周りを見渡してみれば、かつて自分が欲しいと思ってやまなかったものは全て手の中にあった。ブランがシュンランを連れて消えたことで初めて気づかされた、というのは皮肉ではあったけれど。
だから――
「わかったんだ。俺は、この先も全部揃ってなきゃ嫌なんだ。何もかも、何もかも、この旅の中でやっと手に入れたものなんだ。簡単に手放したくない」
空色少年物語