ルクス・エクスヴェーアトは、己に割り当てられた部屋に戻り、壁を背に座り込んでいた。
簡単な止血はしたが、それでも虚脱感は拭えない。
ルクスは神殿に属する騎士ではあるが、ほとんど魔法を扱えない。当然、ある程度高位の技術を要する癒しの魔法など扱えるべくもない。
それにしても、あの少年に完全にしてやられるとは思いもしなかった。そのことを思うと、自然と唇が緩む。そこには、自分よりも遥かに高い場所を駆けていった少年に対する素直な賞賛と……ほんの少しだけの、疑問があった。
身体能力だけで見るならば人より……きっと自分よりもずっと優れているようではあったが、剣を握るにはあまりに優しすぎるであろう、空色の少年。だが、ルクスと対峙した瞬間に見せたあの戦い方は、ルクスの知るセイル少年とは全く異なるものだった。
しかも、あれはルクスのように己の剣に誇りを抱く騎士のものではない。
今まで楽園を巡り数々の戦い方を見てきたルクスだが、己の能力の優位を利用して相手を散々翻弄し、思わぬ一撃を叩き込むような戦い方をする相手はそう多くは無かった。その中でも、先ほどの少年が見せた戦い方は、ルクスが今までに出会った或る人物の戦い方と、あまりにもよく似ていた。
セイルの姿を借りた少年は、己を『ディスコード』だと言った。
『ディスコード』……『世界樹の鍵』。
女神と世界樹に関連する神器でありながら、それ自体は禁忌の技術で創られているという矛盾の塊。
ルクスは、一度、実物をこの目で見たことがある。本来は蜃気楼閣ドライグに封印されているはずのその剣は、傍目から見るならば少々頼りない、一振りのナイフの形をしていた。
けれど、その実態は使い手と呼ばれる者と同化し、自在に変形する剣を与える精巧な機巧であった。その剣が振るわれる瞬間も、ルクスは己の目で見知っている。
その時『ディスコード』を握っていたのは、或る一人の少年だった。
人よりも遥かに優れた肉体を持ってはいたが、肉体は彼にとって単なる器に過ぎなかったはずだ。
実際には、ルクスとは全く異なる思想と知識を持ち、それでいて他の誰とも変わらない傷つきやすい心を持った少年だった。戦うことも知らず、人と対峙することを恐れ、それでいて人というものを嫌いきれない心優しい少年だった。
その少年の手に握られていたのが『ディスコード』。
不協和音、と記憶の中の少年は言っていたはずだ。ルクスや当時の仲間たちの誰一人として理解し得ない事物を理解していた少年は、結局ルクスたちには理解しきれないものを抱えたまま、ルクスたちの前から姿を消した。
……その少年の戦い方が、まさしく、先のセイル少年が見せたものと全く同じ戦い方だった。
相手を読み解こうとする真っ直ぐな視線、咄嗟の判断力。その全てが、ルクスの記憶に合致していて。それ故に『ディスコード』と名乗った空色の少年の言動が、不可解でもあった。
ルクスの知る『ディスコード』は、確かに斬れぬものなど無く、世界樹を制御するだけの力を持ってはいたが、ただそれだけの剣だった。剣自体に意志など無く、かつての使い手の心のままに振るわれていたはずだ。
けれど、あの時対峙した『ディスコード』はセイル少年とは全く異なる意志を持ち、セイル少年を助ける相棒として、己の剣を振るっていた。
あれは、ルクスの知る『ディスコード』とは別のものなのだろうか。
そのはずはない。『ディスコード』は、明らかにルクスのことを知っていた。その言葉があまりにかつての少年と似すぎていて、思わず彼と『ディスコード』を重ねてしまったけれど……それでも、あの少年はルクスの記憶の中では、もう、何処にもいない。何処にもいないはずなのだ。
思索にふけるルクスの思考は、船を揺らす衝撃によって遮られた。窓の外を見れば、見慣れぬ鋼の色をした鳥が数羽、この船に向けて砲撃を放っていた。
鋼の鳥――禁忌機巧。『エメス』が、おそらくはこの船に乗る少女を狙って襲ってきたのだろう。それ自体に驚きは無い、既に少女を連れてきたあの青年が予測していたことだ。唯一予測と違うところは、鳥の数がセイル・フレイザーの予測よりも遥かに多かったところ、だろうか。
さて、どう出るか。警報が音を増す中、暢気ともいえる態度で次の動きを待っていると、激しく扉が叩かれた。ゆっくりと立ち上がり、扉を開くと息を切らした金髪の騎士が立っていた。
若き騎士ライラ・エルミサイアは汗をその額に光らせながらも、あくまで毅然とした態度を崩すことはなく、ルクスと相対する。
「第七番、脱出の準備をお願いいたします。私はこちらに残り、指揮を続行します」
確かに、それが正しい判断だろうとルクスも思う。ルクスは長らく神殿に所属してはいるが、騎士として正式に認められた立場ではない。炎刃部隊隊長という肩書きを持つライラに任せた方が確実ではあるだろう。
ただ、ふと気になることがあって、問いを投げかける。
「青年……いや、第五番はどうした?」
第七番、第五番というのは虚絶ちの武器『女神の剣』に振られた番号であり、その所持者に対する呼称でもある。己も『第四番』の剣を持つライラは、つと視線を窓の外に移した。窓の外には、『白竜の翼』に張り付くように赤い魚を思わせる船……空賊船『紅姫号』が浮かんでいて、そこに紅の羽ばたき船が戻っていくところだった。
なるほど、あの少年は無事、第五番セイル・フレイザーに打ち勝ち、己の目的を果たしたようだった。果たしてそれが神殿と『エメス』、ひいては楽園の未来にどう影響するか、今のルクスにはわからなかったが――
その時、顔を上げた空色の少年と、目が合った気がした。
その少年の目の奥に、遠浅の色をした、記憶の中のもう一人の少年の姿を見て。
ルクスは、赤い船へと去り行く少年に向かって、決して届かない言葉を、落とす。
「どうして、まだ、そこにいるんだ、少年……?」
空色少年物語