空色少年物語

12:ウラギリモノ(1)

 目蓋を開くと、世界は青かった。
 何処までも、何処までも広がる青い空。そのところどころにかかる雲は微かに灰色がかっていて、まるで質量を持っているかのように厚い。微かに土の香りを含んだ風がセイルの空色の髪を揺らして駆け抜けていくのを見送り、もしかすると雨が降るのかもしれない、そんなことを思った。
 思った瞬間に、わき腹をつま先で小突かれた。不意に視界が翳ったと思ったら、凶悪に釣り上がった三白眼が、セイルの目を覗き込んできた。
「ほーら、いつまでおねんねしてるの」
「うう……少しくらい休憩したっていいだろ……」
 セイルは小さく唸って、地面から体を起こした。空色の髪から、ぱらぱらと砂が落ちる。
 今日で一週間になるブランによる「授業」だが、既に体のあちこちが鈍い痛みを訴え、膝や肘はところどころが擦り剥けてしまっている。傷はシュンランの歌やチェインの魔法で癒せるけれど、休息を訴える体を誤魔化すような便利な魔法が無いことは、既に証明されてしまっている。
 それでも自分で望んだことだから、と弱音を吐きたくなるのをぐっと押さえ込み、毎日欠かさず戦いの基礎をブランから学んでいた。
 ブランはブランで律儀なもので、この七日間、忙しそうにあちこち飛び回りながらも、きちんと決まった時間にはセイルに付き合ってくれている。そんなブランのためにも、頑張らないといけない、とは、思うのだが……
 このブラン・リーワードという男に、手加減という言葉は、無い。
 セイルは毎日毎日、限界近くまで……時には限界を超えて……体と頭を動かし、一瞬無理難題とも思えるブランの課題をこなさなければならないのだ。
 ディスに言わせてみれば『天才と呼ばれる連中は、常に凡人の気持ちがわからんものだ』とのこと。ブランにとって、セイルがひいひい言うような課題は鼻歌交じりにこなせるものなのだろう。
 まあ、教え方が悪くないだけよかったんじゃねえのか? と自分が痛い目に遭っているわけではないディスがニヤニヤと笑うような気配を見せる。
 ディスの言うとおり、ブランの教え方それ自体は決して悪くない。単なる勉強と違い、体と頭、双方に叩き込まなければいけない「技術」ではあるが、きちんとセイルが飲み込みやすいように噛み砕いて与えてくれている、そんな気はしていた。
 ただ、ただ、もう少し手加減してくれてもよいのではないだろうか。
 恨みがましく見上げるセイルの視線を、ブランはいつも通りの笑顔で受け流しながら軽い音を立てて手を叩く。
「ま、今日の授業はここまでだけどな」
 思わぬ言葉に、セイルは「へっ」と間抜けな声を上げてしまった。いつもなら、あと半刻はしごかれるところなのだが、と思っていると、ブランは口元に笑みを浮かべたまま、呆れた声で言った。
「 『エメス』の偉いさんと会うってお約束じゃない。もう忘れたってか?」
「あ、そっか……」
 忘れていたわけじゃない、今日がその日だということは、セイルだって「授業」を始める直前までは覚えていたのだから。ただ、ブランに言われるがままに体を動かしていると、時間やその他の事を頭から自然と追い出してしまうのだ。
 けれど、ブランの言葉でセイルもこれから先に待つ未来に思いを馳せる。
 『エメス』の中での穏健派、「和解派」の頂点に立つ男エリオット・レイド。女神や神殿との争いを望まない派閥だとは聞いているが、それでも現在の『エメス』の動きを見る限り、何を仕掛けてくるかはわからない。
 そんな相手と、自分たちが、話をする。
 その場を上手く想像することもできずに、セイルはただただ体を硬くするばかり。
 ブランは軽く肩を竦めて地面に座り込んだままのセイルの空色の髪をぐしゃぐしゃやった。セイルはむっとしてブランを睨んだが、ブランの表情は笑顔ながら、少しばかり真剣なものだった。
「……正直、向こうさんが何考えてるかは、俺様にもさっぱりわからん。だから、お前さんに一つだけ、お願いがある」
「俺に、お願い?」
 セイルは自然と背筋を伸ばす。すると、ブランはセイルの髪を弄るのを止め、真っ直ぐに氷色の瞳でセイルを見据え……ざらついた声で言い放つ。
「もし、奴らが仕掛けてきたら、お前さんは嬢ちゃんを連れて逃げろ。抵抗するな、ただ逃げることだけを考えろ」
 逃げるための布石は自分とチェインで打つ。だから、シュンランと『ディスコード』を持って、逃げられるところまで全力で逃げろ。そう、ブランは言った。セイルは何ともいえない気分になって唇を尖らせる。自分は今もなお、戦力には数えてもらえていないという焦燥がセイルの胸をちりちりと焦がす。
 勢いに任せて抗議の言葉を放とうとしたところで、ディスが割って入った。
『よせ、セイル。ブランが正論だ』
「……な、何だよディスまで」
『お前は少しずつ力をつけてる。元の能力が高いっていう誰にも真似できん利点もある。だがな、長年訓練してきた奴らをいなせるほどじゃねえ。ここはブランたちに任せて、シュンランを守りきることに専念しろ』
 セイルはむっとした。
 そのくらいわかっているのだ。自分はまだ、長年戦うための訓練を積んできた相手と戦うほどの技量を持たない。当然だ、一週間前にやっと訓練を始めたばかりなのだから。そんな自分が下手にしゃしゃり出れば、逆にブランたちの、ひいてはシュンランの迷惑になりかねない。
 ただ、理解できるのと、納得できるのはまた別の話であって。セイルは胸に湧き上がる苛立ちと一緒に言葉を吐き出す。
「でも、今回ディスには頼れないだろ。だって『エメス』が相手なんだから」
 『エメス』はディスの弱点を知っている。今回もおそらく、準備を固めてくるはずだ。だが、ディスはセイルの苛立ちなど知ったことではないとばかりに、静かな口調で諭すように言う。
『だからこそ、だ。俺が戦えない以上、俺とシュンランを守れるのはお前だけなんだよ。そのお前が真っ先にやられてみろ、目も当てられねえ』
 そう、ディスの言うとおりだ。言うとおりなのだけれども。
 何故だろう、苛立ちはなおも増すばかり。ディスが言っていること全てが妙に乾いた、実のないものに聞こえてしまう。そう思ってしまうのも当然だ、という気持ちもあれば、ディスは何も悪いことを言っていない、という気持ちもある。ぐらぐら揺れる心を抱えて途方に暮れるセイルを何とか救い上げたのは、肩を叩いたブランの一言だった。
「ま、お前さんなら切り札もあるし、嬢ちゃんを逃がせると信じてる。頼んだぞ」
 その言葉を聞いて、セイルの心は一瞬前までの苛立ちをすっかり忘れ、ぐっと上向きになった。
 信じてる。
 ブランはそう言った。素人に毛が生えたかどうかもわからないセイルを、今だけは信じてくれているのだ。その事実に俄然勇気付けられる。自分も頑張ろう、という気分になるのだ。
 ……単純かもしれない、そう思いはするけれど。
 セイルはぱんぱんとズボンについた砂を払って立ち上がる。シュンランがセイルの名を呼び、庭の向こうで手を振っている。その横にはチェインの姿もあった。
 緊張はしている。怖くないといったら嘘になる。けれど今だけは、弱い部分を見せるわけにはいかない。自分を頼ってくれるブランのために、自分が守らなくてはいけないシュンランのために。
 深く、深く、息を吸って、吐いて。
 ディスが頭の中に呟いた、微かな非難交じりの声は聞かなかったことにして、セイルは地を蹴ってシュンランの元に駆け出した。
 白い鳩の舞う空が翳り出したことにも、気づかぬままに。
 
 汚れてしまった服を着替え、昼食を済ませて四人は家を出た。ロジャーは留守番だという。実際のところ、ロジャーは机上の学者であり剣も魔法も得意とはしていないため、残ってるのが正解だとブランは言った。
「それに、ロジャーは俺らの事情とは何も関係ないからな」
 町の外に向けて歩きながら、ブランは鼻歌を歌うように言う。何とも緊張感の無い姿だが、それがブランのブランらしいところでもある。
 それよりも、シュンランは何となくブランの言った内容に気が引かれたのか、大股に歩くブランの後姿を軽く小走りになって追いかけながら言った。
「ロジャーは異端ではないですね。ロジャーがそう言っていました」
「ああ。奴はブラン・リーワードでなくセイル・フレイザーにつく助手だからな。魔道機関にしか興味を持たない、視野の狭い男だ」
 そういうの、俺様は決して嫌いじゃないけどね、と言ってブランは肩を竦める。そもそも、ブランのようにあらゆる方面に精通しているような者の方が少ない。だからこそ、ブラン・リーワード、そしてセイル・フレイザーは天才として知られるようになったのだろうが……
「だけど、ロジャーはアンタが異端だってことは知ってたみたいだね。アンタらって、どういう関係性なんだい?」
「ただの博士と助手よ? ただ、奴は俺様が隠したい部分についても結構深く知ってんのよ。俺様がどういう経緯で『エメス』を抜けて学院に逃げ込んだのかとか、俺様が賢者様を追っかける目的とかな」
「それって、弱みを握られてるってこと?」
 セイルが問うと、ブランは「あ、そうか、そうとも取れるな」とまるで今気づいたかのように……実際、言われて初めて気づいたのかもしれない……ぽんと手を打った。その様子に、チェインがあからさまに眉を顰めた。
「アンタ、本当に変なところで暢気だよね。そんなんだから、ノーグに出し抜かれたんじゃないかい?」
 すると、ブランは苦笑して頭をかいてみせる。
「それ、ロジャーにもよく言われてるわあ。でも、実際のところは俺様もアイツの弱み握ってるから五分五分だな。お互いに利用し合う関係、持ちつ持たれつ、ってやつさ」
「しかし、ブランは、ロジャーに自分のことを教えたのですか?」
「や、全部推測されちまったんだ。俺様、ほとんど何も言ってないのにだぜ。だから、面白い奴だなと思って手元に置こうと思ったんよ」
 セイルもそれには驚いた。セイルたちが毎日見ていてわからなかったことを、ロジャーはあっさりと言い当ててみせたのか。ブランに言わせてみれば、もちろん違う場所もいくつかあったが、それにしても驚嘆すべき洞察力だったという。
「成績はぱっとしねえし、嘘吐き兎なもんだから学院じゃほとんど相手にされてなかったみてえだが、奴には一種の才能があると思ってる。相手を見て正確に推測する。俺様には決して真似出来ねえことだ、その点で奴を尊敬してんのよ」
 尊敬、という言葉を何の衒いも無く使ってみせるブラン。立場としてはブランの方が上なのは間違いないはずだが、彼の中には上も下も無いのかもしれない。評価できるものは評価するし、自らに無いものを持つ者を素直に尊敬できる。そんな一種の純真さがセイルには羨ましくもあった。
 ふと視線を横に移すと、シュンランは愉快そうに笑うブランをじっと見上げていた。そのすみれ色の瞳には何かを探るような色が見え隠れしている。
 シュンランがそういう目でブランを見ているのは今日が初めてではない。ブランがノーグを追う目的を話してくれた日、あの日からずっと、シュンランはブランを観察している。それこそロジャーがそうしたように、ブランの一挙一動、言葉の端からブランが秘めている何かを読み解こうとしているように、見える。
 けれど、セイルにはシュンランが何を見つけようとしているのかも、わからない。
 だからだろうか、そんなシュンランの横顔を見ていると、胸がざわつく。最近、ずっとそうなのだ。あちこちに気を取られて、心が落ち着かないまま、毎日を過ごしている。心が落ち着くのはそれこそ無心に訓練をしている時か、夜眠るときくらいだ。
 胸の奥に魚の骨か何かが引っかかってしまったような感覚を抱きながらも、セイルはブランの背中を追いかける。足を進めていくにつれて、お互いの口数も少なくなってくる。その代わりに流れるのは緊張。
 ただ……それを、ディスの一言があっけなく打ち破った。
『……で、ありゃあ何だ?』
 ディスがセイルの視界越しに見ていたのは、道の向こうに突き出している「何か」だった。実は町からも見えるのだが、近づくにつれそれが何であるのかがはっきりしてくる。いや、逆にわからなくなる、と言ってもよいかもしれないが。
 それは、丘の上に佇む、巨大な人だった。
 緑色の葉や蔦を纏った、おそらくは石か何かを組んで作られた人形……ゴーレムなのだろうが、到底人の手で作れるような大きさではない。両足ですっくと立っていれば天にも届くような長身なのだろうが、今は膝をついた姿勢でそこに佇んでいる。
『こんなもの、俺の知ってるワイズには無かったんだが』
 呆然とするディスに対し、ブランがけらけらと笑って応える。
「ま、そうだろうな。この巨人が現れたのは、今から十七年前のことだから」
 その話は、セイルも兄から聞いたことがある。確か、こんな話だ。
 学問都市ワイズの周辺には暗黒時代の遺跡が点在しているが、そのうちの一つから『クアトロフォイル』と呼ばれる石が発掘された。これは一つでも莫大な魔力を秘めた魔石、フォイルであったが、四つ集めると遺跡の奥に隠された宝が手に入る、といういわくつきのフォイルだった。
 この噂を聞きつけた墓暴き……遺跡に潜り、宝を求める連中のことだ……たちが楽園のあちこちに散らばっているという『クアトロフォイル』の一部を探し回ることになったが、結果的に四つのフォイルを集めたのは四人の冒険者だった。
 四人は揃えた『クアトロフォイル』を使って遺跡の奥へと潜ったが、驚くべきことに地下に埋まっていたその遺跡は遺跡などではなく、兵器として造られた巨大なゴーレムの体内であった。そして結果的に封印を説かれてしまった巨人は動き出し、ワイズの町に向かって歩き始めたのである。
 古代の武器を積み込んだ巨大な人形に襲われれば、いくらワイズの町でも被害は免れない。そこで冒険者たちはワイズの民の協力を得てゴーレムの進軍を阻止し、その間にゴーレムの体内に再度潜り込み、心臓に当たる場所を壊すことでゴーレムを止めることに成功した。
 そして、ここに佇むのはもはや二度と動くことの無いゴーレムの残骸なのだという。
 聞いた当時は兄の作り話かと思ったものだが……実際に目にしてみると、半分以上は事実だったのだろうな、と思わずにはいられない。それほどまでに巨大で、今にも動き出しそうな迫力を持ってそこに佇んでいる。
 今では、ワイズの名物のようなものになっているのだ、とチェインが付け加えた。冒険者が多く集まることでも知られるワイズの町だ、いい見世物であることには間違いない。
「とはいえ、飽きが来るのも早くてな。こんな辺鄙な場所だし、わざわざ近くまで来ようって奴は少ないのよ。だからこそ、向こうさんもあそこを指定してきたんだろうな」
 ブランの言葉を裏付けるように、巨人の姿がすぐそこに見えているにも関わらず、その足元にたどり着くまでには結構な時間を要する。目標が巨大すぎて、距離感を狂わせているようだ。
 それでも、歩いていくうちに……巨人の足元に立つ、数人の人影が見えてきた。
「あれが、『エメス』の?」
 チェインが緊張を含んだ声でブランに問う。ブランは目の上に手を翳してその姿を見定めようとしていたが、やがて「そうだな」と頷いた。
 自然と背筋が伸び、心臓の鼓動が早くなる。シュンランに向かってそっと手を伸ばし、その細く小さな手を掴む。シュンランも微かな不安をそのすみれ色の瞳に浮かべながら、軽くセイルの手を握り返した。
 向こうもこちらの姿に気づいたのだろう、めいめいの方向を向いていた人影が、一斉にセイルたちの方に顔を向けたのがわかった。セイルたちは歩く速度を速めることも落とすこともせず、巨人の足元にたどり着いた。