空色少年物語

11:彼の来た道(1)

「 『エメス』のエリオット・レイド博士と会う日取りが決まった」
 セイルたちが朝食の席につくや否や、各々が女神ユーリスへの祈りを捧げるのを遮って、ブランが言った。
「今からちょうど一週間後の花の月三十、巨人の丘にて会談の場を設けることを約束させた」
 レイド博士は『エメス』の部下たち数人を連れて丘に訪れる。こちらは『歌姫』であるシュンランさえ連れてくれば、他に誰を連れてきても構わない、という約定だ。『エメス』の幹部にしてはあまりに寛大すぎて、逆に罠ではないかと思ってしまうセイル。シュンランも同じ危惧を抱いたのだろう、すみれ色の瞳を曇らせて、ブランを見上げる。
「それは、安全ですか? 信じてよいですか」
「それは俺様も保障しねえよ。ま、罠だと思っておけば間違いないんじゃない?」
 ブランはさらりと言って、フォークを手に取った。今日の朝食は市場で買ってきた新鮮な野菜をふんだんに使ったサラダに、黄身が鮮やかなミーリオ鳥の目玉焼き。そして、ロジャーに教えてもらった美味しいパン屋で買ってきた食パンのトーストが皿の上に並んでいる。セイルたちも、ブランに倣って各々食事を始める。
 腹が減ったままでは、ろくに頭も働かない。そう言ったのは、多分、セイルの母だったと思う。
「……ブランは、罠だと思ってるの?」
 セイルは言って、トーストにかぶりつく。バターの微かな塩気と、焼けた小麦の香りが口の中で溶け合う。最近毎日食べている味ではあるが、やはり美味だと思う。
 ブランは「んー」と首を傾げてみせる。ニヤニヤ笑ったままでは説得力が無いものの、ブランはブランなりに言葉を選んでいるのかも、しれない。
「レイド博士の人柄じゃ、騙し討ちってことは無さそうだが……裏で賢者様が糸引いてた場合が怖いわね。アイツ、マジで性格最悪なんだもんよ」
 セイルは、兄に対するブランの評価に少なからず不快感を覚えつつも、とりあえずは口の中のトーストを飲み込むことに集中する。ブランはそんなセイルを目を細めて眺めつつ、笑顔で言った。
「ま、罠を仕掛けてくるなら、こっちもそれに備えた用意をするまでよ。その辺はガキんちょたちは心配しないでよろし」
 ――どうあれ、約束は守るのが俺様の主義なんだから。
 ブランの言葉はふざけた言い回しでこそあったが、何処までも決然としていた。
 セイルの正面に座るチェインが、フォークでサラダをつつきながら、眼鏡の下の瞳を細める。
「それはありがたいことだけどね。一体、どういう伝手で約束させたんだい」
「俺様の異端としてのコネ……って前にも言ったけど、信じてはもらえてないでしょうねえ、その感じだと」
「貴様の言葉を信頼しろ、という方が難しいと思うがなあ、俺は」
 ぽりぽりとサラダの中のトキリャ根を咀嚼していたロジャーが、大げさに肩を竦める。ブランも「どうせ俺様は信頼ゼロですよーだ」と拗ねたような振りをしてみせてから、チェインに向き直った。
 セイルが見たブランの横顔はいつも通りの笑顔だったけれど。
 何故だろう、胸に刃の先端を当てるような。そんな「凄み」が感じられた。
「ここだけの話だがな。俺様、『エメス』にいたことがあんのよ」
「……何だって?」
 その言葉には、セイルも驚きに目を見開くしかなかった。ブラン・リーワードといえば『エメス』を嫌う穏健派の筆頭だと聞かされてきた。ブラン自身も『エメス』を酷く嫌っていて、だからこそ自分たちに協力していると思っていた。
 そのブランが、元々は『エメス』に所属していたというのか。
 チェインの視線に、明らかな疑念が混ざる。それは、横から見ているセイルにもわかる、鋭い棘を含んだ視線であった。それを受け止めてなお、ブランは悠然と微笑む。
「何故、今まで黙ってたんだい」
「今は『エメス』とは無関係だもの。それに、今の連中のことは何もわからん。だから、言う必要も無いかと思ってたんだけど……言った方がよかった?」
「当然だよ。余計な疑いを持たれたくないならね」
 その様子だともはや手遅れみたいだけどな、とブランは陽気に笑いながら肩を竦める。そのふざけた態度が余計にチェインの神経を逆撫でしたのだろう、チェインの眉間に深く皺が刻まれる。これ以上ブランが何か余計なことを言えば、食って掛からんばかりの勢いだ。
 だが、ブランが口を開く前に、シュンランがぽつりと言った。
「ブランは、本当に何も話さないのですね」
「……そう?」
 ブランは不意を突かれたとばかりにきょとんとした。口元は微笑みを浮かべていたけれど、シュンランが何故そんなことを言ったのかさっぱりわからない、という表情だ。
 シュンランはフォークを皿の上に置き、白い指をテーブルの縁に揃える。
「ブランは、わかっていないです。わたしたちは、ブランの何も話さないが、不安なのです。だから、チェインは怒るです。セイルが困るです。わたしも……怖い、です」
 怖い、と言ってはいたけれど。シュンランの瞳は不安と恐怖に震えているわけではなかった。一種の覚悟と決意を持った、強い瞳でブランを見上げている。ブランは何処か間の抜けた表情のまま、シュンランをじっと見据えていた。
 ブランが何を思ってシュンランの言葉を聞いているのか、セイルには想像もできなかったが、果たして、シュンランは理解していたのだろうか。
 白い少女は小さく息を吸ってから、一気に言葉を吐き出す。
「だから、今ここで教えてほしいです。ブランが、何故わたしたちを助けるのか。わたしと『ディスコード』を求めるのか。『エメス』とノーグを嫌いなのか」
 それは、セイルもずっと聞きたいと思ってきたこと。
 そして、ブランがずっと言葉を濁してきた部分だった。
 ブランは唇に指を当て、しばし視線を下げて沈黙した。ここまで来て、また誤魔化そうとでもいうのだろうか。その時には何と言ってブランの言葉を引き出せばよいのだろうか――セイルが思い始めた時、ブランがゆっくりと口を開いた。
「そうか。そういうものか」
「ブラン?」
 不可解な呟きに、セイルは思わずブランの名を口に出していた。ブランは口元に苦笑を浮かべ、ふと顔を上げてみせる。
「悪い。確かにそれはわかってなかったな。少し反省しとく……けど、何もお前らを騙そうと思って黙ってたわけじゃねえのよ」
 そう、そんなつもりは無かったんだ。
 呟くブランの声は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。チェインも一瞬前までの怒りの表情を消して、何処か異様なものを見るようにブランを見た。ブランはこちらを見る三人……唯一、ロジャーはセイルたちの会話に構わず己の食事を続けていた……を見渡して「はは」と乾いた笑い声を上げる。
「ただね、何を何処から話せば正しく伝わるのか、わからなかったのよ。そうだよな、どういう形でも、まずは言葉にしないと伝わらないってのに」
 そんな簡単なことも、意識に上っていなかったのだ、と。
 ブランは言って笑ったけれど、その笑いは何処か冴えないものだった。
 シュンランは、そんなブランを見上げて、淡々と言葉を紡ぐ。
「話してもらえますか? あなたのこと」
「そうだな……もはや、話さない理由も無いか」
 フォークを置いて、氷色の目を細め。
「つまらん話をしよう。俺様と、賢者様についてのつまらない昔話だ」
 放たれた声は酷く、低かった。
 セイルはぞくりとして、思わず背筋を伸ばしてしまう。しかし、目の前のブランは変わらぬ笑みを浮かべ、変わらぬ態度でそこにいて。今感じた悪寒は何だったのだろう、と思う間もなく、ブランは言葉を紡ぎ始めていた。
「まずは、俺様の話をしよう。俺様が嬢ちゃんと『ディスコード』を求めてる理由は『エメス』と賢者様の邪魔をしたい、そのついでに出来れば賢者様のアホ面も拝んでおきたいってとこだ。
 だから、嬢ちゃんやディスが賢者様に会いたがっていて、かつ『エメス』のやり方を否定する限り俺様自身の目的とも相違が無い、故にお前らに協力してるわけ」
「……本当に、それだけなのかい?」
 チェインの声にはあくまで深い疑いが込められていたが、ブランはあっさり「そうよ?」と返す。
「そもそもが単なる私怨なんでね。そういう意味ではノーグを殺そうっていうお前さんとさして変わらんよ、チェインの姐御」
 そう言ったブランの言葉を聞いて、セイルは思い切って問いを投げかける。
「ブランも、兄貴を恨んでるの? その……兄貴に、何かをされたの?」
 聞くのは、正直に言えば辛かった。喉が渇き、上手く言葉になったかもわからない。
 チェインから兄に対する強い負の感情を叩きつけられたあの瞬間を思い出し、小さく震える。
 けれど、きっとここで聞いておかなければならないのだ。聞かなければ、自分はいつまでも不安だけを抱いてブランの後をついていかなければならないのだから。
 ブランはセイルを氷色の瞳で一瞥して、ほんの少しだけ、笑い声を漏らした。
「ま、その話は後々しよう。まずは順番に話させてくれ。俺様、あんまり説明は上手くねえからさ」
「う……うん」
 そう言われてしまうと、何となく出鼻を挫かれた気分になりながらも頷くしかない。ブランは「悪いね」と全く悪びれた様子もなく言って、話を再開した。
「お前らも知ってる通り、俺様は昔から『エメス』の思想が大嫌いだった。が、『エメス』が溜め込んでる禁忌に関する知識そのものには少なからず興味があった」
「……ノーグも、そうだったと聞きましたが」
「 『エメス』に足を踏み入れる動機は大抵そんなもんよ。初めから女神様と戦争したいなんて思ってる異端は多くない。誰だって我が身が大切だもん」
 それならば、異端に足を踏み入れること自体を止めればいいのに。異端でないセイルは当然のようにそう思うけれど、これについてもブランは以前に答えを示していたはずだ。それを裏付けるように、ブランはゆっくりと息と共に言葉を吐き出す。
「けどね、身の危険を理解しながらも本当のことを知りたいと思っちまう。それが俺を含めた異端って人種なわけ」
 馬鹿な連中だよ、と呟くチェインの声がセイルの耳にも届いた。ただ、それは本当に異端研究者と呼ばれる人々を馬鹿にしているというよりは、何か納得のいかない感情を噛み締めるような言い方だった。
 ブランは「馬鹿なのよ、当然俺様もね」と苦笑する。
「そんなわけで、俺様は『エメス』に一時期片足突っ込んでたわけ。と言っても当時はまだ平和なもんだった。女神様をいつかは倒さなきゃならん、って意気込んでる連中はいたが……まだ、それを実行に移そうなんて奴はいなかったから」
 それが変わってしまったのが、今から大体六、七年前。そうブランが言ったことで、セイルもブランの話の筋を理解し始めた。
 六、七年前。それはちょうど『機巧の賢者』ノーグ・カーティスが表立ってはいないものの『エメス』の中で確固たる位置を確立し始めた時期だ。シュンランも、チェインも、話が核心に近づいたことに気づき、表情を硬くする。
 当のブランだけは、いつも通りの笑顔を浮かべていたけれど。
「俺様はその頃に『エメス』から足を洗おうと思った。当時は賢者様の存在もろくに知らなかったが……やばい匂いがしたんだよ。何かが『エメス』全体に糸を張って俺らを操ろうとしてる、そんな感覚だ」
 そして、そのブランの勘が外れてはいなかったことは、今の『エメス』を見れば誰の目にも明らかだ。ノーグを筆頭に、女神打倒を掲げて押し寄せる巨大な波。その予兆は、ノーグが世に名を知られる前からあったのだ。
「それで、アンタは『エメス』を抜けて、穏健派を名乗るようになったのかい?」
 チェインの問いに、ブランは「あー」と言って軽く頭をかく。
「ま、そうなんだけど、そこに至るまでにまだ経緯があってさ」
 ちょっと話は変わるけど、とブランは下がっていた声音をわざとらしく高くする。
「俺様に、少し変わった力があるのはお前らも知ってるはずだ」
「それは、未来を見る瞳、ですか?」
 セイルも、シュンランの言葉でブランの能力を思い出す。ただ「見る」だけで、周囲がどのように動くのかを瞬時に予測する能力。兄ノーグにも備わっているという、限定的な未来視――
「そ、俺様は『ディスコード』を操る才能『ユニゾン』と、一瞬先の未来を予測する『アーレス』って眼を持つ。ガキんちょはディスから聞いてるだろうが、こいつは血筋に能力が備わってて、使い方も生まれつき大体理解できんのよ」
 何がどうして俺様の血にんな奇怪な能力が備わってるのか、詳しいところはわからんけど、と言い置いてブランは氷の瞳を細め……
「こともあろうに賢者様は、この能力の持ち主を求めてた」
 静かに、言った。
 一瞬ブランにどういう意味かを問いかけようとして、セイルは言葉を飲み込んで俯く。少し考えればわかることだ。
 『ディスコード』は『世界樹の鍵』とも呼ばれる。
 世界樹は楽園の大地の礎であり、世界に魔力、マナを満たす女神ユーリスの樹。女神は常に世界樹に寄り添い、世界樹が枯れぬよう、楽園のマナが尽きぬよう世界樹を制御している。
 だが、『ディスコード』は女神の力を借りずとも世界樹を操ることが出来るという。
 世界樹を操ること、それは女神と同等の力を振るうことに他ならない。つまり『ディスコード』の使い手とは、まさしく『機巧の賢者』ノーグが求める女神の絶対性を打ち崩す象徴であり、また女神を倒すための力なのである。
 しかし、だ。
「何で奴が力の持ち主を求める? 奴だって『ディスコード』の使い手で、未来視持ちなんじゃないのかい」
 チェインの言葉は、セイルの疑問そのものだった。
 そもそも、シュンランが『ディスコード』を蜃気楼閣ドライグから持ち出したのは、使い手であるノーグその人に渡すためだ。そのノーグが、ブランの力を欲する理由がわからない。
 だが、ブランは「さあねえ」と軽く肩を竦めてみせるだけだった。賢者様の高尚な考えは俺様のような愚民にはわからんよ、というのがブランの談。
「とにかく賢者様ったら本気でさ。『お前が欲しい』って熱烈ラブコールよ。それ、可愛い女の子とか綺麗なお姉さんに言われるならいいけど、野郎に言われても嬉しかねえよなあ……」
 それは、とても、嬉しくない。
 セイルも思わずげっそりとした表情を浮かべてしまう。一体、兄が何を考えているのかさっぱりわからない。ただ、ふと顔を上げてみて気づいた。いたってふざけた口ぶりながら、ブランの表情は酷く冴えない笑顔だ。何か、嫌なものを噛み締めてしまったかのような、複雑な表情。
「で、まあ、全力で断ったわけよ。俺様『エメス』に興味無いし、お前に従うつもりもねえって。その時はそれでお開きだった。ここで終わりだと思ってた辺り、俺様の浅はかさが笑えてくるがな」
 ブランはくつくつと笑う。だが、いくらなんでもそれが本来の意味での「笑い」でなく「嘲笑」、それも自嘲の笑いであることはセイルにだってわかった。
「俺様が賢者様からラブコール受けてた頃には、既に全ての仕込みが終わってた。俺様がそれに気づいたのは、『エメス』を飛び出した後だった」
 仕込み? とシュンランが首を傾げる。
「簡単なことよ。奴は俺様が異端研究者だってバラしやがったんだ。尾びれとか背びれをつけまくって、な」
「――!」
 異端である、ということは、それだけで楽園に対する反逆の罪を背負う。セイルたちのように、異端に対する偏見が少ない相手ならともかく、敬虔なユーリス信者は異端研究者が息をすることも許さない。つまるところ、表立って行動することが許されなくなる。
 確かに、これは間接的ではあるが酷く効果的な「圧力」だ。
 表に立てなければ、裏に潜るしかない。異端であるブランを受け入れるのは、やはり異端である『エメス』であって――
「で、もう一度。行き場を失ってぼろぼろになった俺様に対して、奴さんは勝ち誇った顔をして聞いてきた。俺のものになれ、そうすればお前の望みだって叶えてやる、ってさ」
 馬鹿馬鹿しい、そう吐き捨てたブランの目は、決して笑ってはいなかった。
「他人に奇跡を委ねるなんて、そこまで腐っちゃいねえんだよ。何度言われても答えは変わらねえ、俺はお前なんかには従わない……って問答を繰り返した結果」
 ブランは軽い溜息混じりに、
「当時の仲間まで、殺されちゃったのよねえ」
 そう、言った。