空色少年物語

幕間:紅茶とマフィン

 眠れない夜は誰にだってあるものだ――
 チェインは闇の中に淡い光を灯し、椅子に深く腰掛けた。
 ただでさえ、色々なことが起こりすぎている。自分の目の前で、自分の知らない場所で。ただ一人、影追いという立場を借りてノーグ・カーティスを追うはずが、今では何故か子供連れの四人旅。全てを把握出来ていないままに『エメス』に追われ、ここワイズに逃げて安心できるかと思えばまたも襲撃だ。
 けれど、この旅が決して嫌なわけではない、そんな自分の甘っちょろい心を叱咤するように、ポケットの中にしまいこんだ手紙が存在を主張する。
 セイルたちには見つからないように受け取った、神殿からの手紙だ。ざっとしか目を通していないが、目に入った一言は、チェインの心の中にぐるぐると渦巻いている。
 別に、どのような立場でもノーグを殺すという目的は変わらない。変わらない以上問題ない、問題ないではないかと自分自身に言い聞かせ、せめて一度はきちんと読んでおくべきだろうとポケットに手をかけた、その時だった。
 そっと、こちらをうかがう影に気づいてチェインははっとし、思わず身構えてしまう。
 しかし、それが見慣れた空色の髪の少年であることに気づくと、すぐに肩の力を抜いて手招きする。
「どうしたんだい、セイル。こんな時間に」
 空色の少年、セイルはとことこ寄ってくると、「眠れないんだ」と伏目がちに呟いて椅子に座った。チェインはそんなセイルのために、ミルクと砂糖をたっぷり入れた紅茶を出してやった。あまり濃い茶では、逆に目が冴えてしまうだろうから。
 セイルは小さく会釈して柔らかな湯気を立てるカップを受け取る。その落ち着いた、それでいて妙に遠慮がちな仕草がいつものセイルらしくなくて、チェインは微かに眼鏡の下で目を細め……そして、やっと気づいた。
「ああ、気づかなくてごめん、ディス」
「別に、構やしねえよ」
 セイル、否、セイルの体を借りているディスは不機嫌そうな表情を浮かべながらも両手でカップを持ち上げ、紅茶を冷ましつつちまりと舐めた。
 神殿でも重要視されている『世界樹の鍵』と呼ばれる禁忌機巧、ディスこと『ディスコード』。その『鍵』に確固たる意思があり、人の体を操ることが出来る。そう聞かされた時には驚いたものだが、こうやって接していると慣れてしまうものだな、と思う。
 初めて会った時は敵同士だったこともあり、随分と刺々しい態度だったディスだが、いざ共に行動するようになると、普段は案外大人しく、同時に理屈っぽい性格だということはチェインにもわかってきた。
 そして、表情豊かなセイルと違って常に不機嫌そうな顔をしているけれど、単にそういう顔になってしまうだけで本気で不機嫌なわけではない、ということも。
「セイルはどうしてるんだい?」
「中でぐっすり寝てる。俺もとっとと寝るべきなんだが」
 ふあ、と欠伸をするディス。セイルの体を使っている以上、眠らなくてはセイルに影響が及ぶことくらいはディスも理解しているはずだ。それでも、誰にだって眠れない日はあるのだろう。きっと、本来は人ですらない、ディスにだって。
 ディスはもう少しだけ紅茶を舐めた。背中を丸めて紅茶を啜るその姿は、何となく小さな野生動物を彷彿とさせた。そもそもセイルは体が小さいから、尚更そういう風に見えるのかもしれない。
 チェインは何となく微笑ましさすら感じながら、カップを両手に持つ空色の少年を見つめる。見つめられていることに気づいたのか、顔を上げたディスは露骨に視線を外した。ディスは「見られる」ことが極端に嫌いだ。この仕草一つ取っても、セイルとの違いがはっきりと現れている。
 そういえば、こうやってディスと一対一できちんと喋るのは初めてかもしれない。そう思いながら、チェインは「そうだ」と小さく手を鳴らした。
「ワイス蜜入りのマフィンも作ったんだけど、食べるかい?」
「いいのか?」
 ディスの声が、わかりやすく高くなる。甘いものが好き、これもディスの特徴の一つであることは間違いない。「たくさんじゃなければ、寝るのにも支障ないさ」とチェインは台所に置いておいたマフィンの篭をテーブルの上に移した。ディスは彼には珍しく嬉しげな表情でマフィンを一つ両手に握り、これまた少しずつ食べ始めた。いちいち仕草がちまちましているのは、もはや一種の癖なのかもしれない。
 作るだけ作って自分できちんと味を確かめたわけではなかったが、もぐもぐと無心にマフィンを食すディスの表情を見る限り、どうやら上出来だったようだ。
 そこまで考えて、チェインは口を開く。
「ディス」
「……何だ?」
 一拍ディスの言葉が遅れたのは、口の中に入ったマフィンを飲み込めていなかったからだ。チェインは少しだけ警戒の色を見せたディスに対して微笑みを浮かべて言った。
「今度は、何が食べたい?」
 え、とディスは少しだけ驚いたように銀色の目を見開く。
「何で、んなこと聞くんだよ」
「アンタがそんな顔して食べてくれるからさ」
 チェインが当たり前のことを答えると、ディスは半分くらいまで食べ終わったマフィンを見つめ、少しだけ眉間の皺を深めた。何故か、痛みを堪えるかのように。
「どうしたんだい」
 チェインは少しだけ不安になって、問いかける。すると、ディスは「悪い」と頭を押さえて首を横に振った。
「ブランの言葉、思い出しちまっただけだ」
「ブランの?」
「 『見失うな』――この程度で見失うわけねえって思いながら、揺らいじまう自分が情けねえ」
 ディスは皮肉げに口の端を歪め、目を伏せて俯く。
「たまに不安になんだよ。俺、本来はものを『美味しい』って感じるための感覚も備えてないはずだろ」
 その言葉には、チェインもはっとさせられた。
 こうやって、同じ目線で喋ることが出来るから錯覚するが、ディス――『ディスコード』は本来は機巧仕掛けの剣だ。人とよく似た意思を持ってこそいるが、おそらくそこに人と同じような五感は備わっていないし、そのような感覚を持たない以上、意識の持ちようも人とは違う、そのはずだ。
「それなのに、人の体を借りてると、時折そいつを自分のものだと錯覚する。その度に、自分が剣だってことをいつか見失うんじゃねえかって、思っちまう」
 それは、とても恐ろしいことだ、と深くうなだれるディス。
 その不安を、恐れを、自分が理解することは決して出来ない。チェインはそう確信した。チェインは人だ。ディスのように、心を持つ剣ではない。想像をすることは許されたとしても、決して、それは理解には至らないはずだ。
 それに――ディスも、きっと理解されることは望んでいない。口を噤んだディスには全てを拒絶するような気配があったから。いや、それは今に限ったことではない。チェインの目から見る限り、ディスは常に誰からも一歩置いた場所に立っているように見えていた。
 そうして人からの理解を拒むディスだが、拒む理由もまた、ここに収束するのではないだろうか。
 チェインは紅茶に口をつけ、それから未だうなだれたままのディスに対して、静かに言葉を投げかける。
「アンタ、いつもそんなことを考えてたんだね」
「は、下らねえほどに情けねえ話だ、聞かなかったことにしといてくれ。あと、セイルには」
「言わないよ。私がそんなに口の軽い女に見えるかい?」
 チェインがおどけて言うと、ディスは「その点は信頼してる」と答えて紅茶を啜り、再びマフィンを齧る作業に戻った。
「……美味いよ」
「ありがと」
 チェインは微笑みでディスの言葉に応え、ミルクが多目の紅茶を一口。
 普段は見ることも出来ず、その声を聞くことも出来ないディスが、複雑な表情ながらもほんの少しでも嬉しそうにしてくれている。その事実は、いつしか忘れかけていた温かな気持ちを呼び起こす。
 それは――嬉しさと同時に、ディスが己を見失うことを恐れるのと似た不安すらも生み出す温もり。
 そんな温かなもの、血に濡れた、そしていつかもっと濃い血に手を濡らすこの手に許されるものではない、そんな囁きも聞こえてくる。
 それでも。それでも、チェインは微笑む。誰にも理解されない思いを抱えながら、それでも小さな幸せを大切にしようとする目の前の剣に柔らかな微笑みを投げかけて、
 ポケットの中の手紙を、くしゃりと潰した。