空色少年物語

04:機巧の賢者(2)

 ――世界、を?
 セイルの問いは声にはならなかった。何しろ、突然「世界」などという大きな話になってしまったのだ。戸惑うセイルに、シュンランも苦笑を投げかける。
「ごめんなさい、変なお話です。困るですよね」
「う、ううん。変じゃない。でも、世界を助けるって言っても、何か悪いことなんて起こってるの?」
 楽園は三百年ほど前の大戦以降、長らく平和を守り続けている。北の方では小さな内戦が続いていたらしいが、それも近年はずいぶん落ち着いてきたと聞いている。女神に歯向かう秘密結社の噂はあれど、最低でもこの窓の外を行き交う人々の賑わいを見る限り、不穏な気配を感じられるはずもない。
 シュンランもセイルの言葉には同意だったらしく、小さく頷いて窓の外を見る。
「はい。だから、わたしを助けてくれた人は、ドライグで平和に暮らせばいいと言ってくれました。その人は、わたしにこの世界のことと、この世界の言葉を教えてくれました。けれど」
「けれど?」
 シュンランは、そっと自分の体を抱きしめ、小さく震える。その顔は、微かな恐怖の色を宿していた。
「……ある日、『エメス』がドライグを襲いました。その人たちは、わたしと、ディスを探していました」
「ディスを? ディスもそこにいたんだ」
『ああ、俺はずっと蜃気楼閣に封印されてんだよ。危険だしな』
 ディスはまるで他人事のように言ったが、「危険だから」という言葉が引っかかった。
「ディス、危険ってどういうこと?」
『俺は「世界樹の鍵」。使い方さえ知ってれば、世界樹を操ることができるらしいぜ』
「世界樹を、操るって……とんでもないことじゃないか!」
 だから危険なんだよ、とディスはセイルの頭の中で嘆息する。そんな大切なことなら、早く言っておいてほしい。聞いたところでセイルにどうこうできる話でもないのだが。
「世界樹を操る、ですか? 世界樹、あれですか」
 シュンランはセイルの言葉からディスとの会話の内容を推測したのだろう、窓の外に霞んで見えるものを指さした。町並みの遙か向こう、天をも貫くような高さの樹……あれこそが楽園の礎、世界樹。
 世界のことも知らない、と言いシュンランに対し、セイルは少ない知識を何とか絞り出して説明する。
「うん。あれが海の上に浮かんで楽園の大地を創ってるんだ。俺たちの立ってる場所は、世界樹の根っこ。それに、人が魔法を使えるのも、世界樹がマナを生み出してくれてるからなんだ」
「マナは、魔法の力ですね」
「そう。それで、ディスが世界樹を操るっていうけど……何が起こるの?」
『えーっと、「世界樹がマナを生み出す力を抑制する」だったか。俺も実際あまり使ったことないからよく知らねえ』
 自分のことのくせに、随分頼りない返事である。さっきも「らしい」とか言っていたし、あまりディスの答えを頼りきるのも問題がありそうだ。ただ、ディスの言葉が真実ならば、ディスはとてつもない力を秘めた剣ということになる。ただ喋ってよく切れるだけのナイフではないのだ。
 そして、その『ディスコード』と不思議な歌を歌えるシュンランを狙って攻めてきたのが、異端研究者の秘密結社『エメス』だとすれば……
「 『エメス』は、ディスの力を使って世界樹を操ろうとしてた、ってこと?」
『ま、そんなとこだろ。俺も奴らについてはよく知らんが、ろくなことは考えてねえだろう』
 ディスは溜息混じりに言う。世界樹のマナは、創造の女神ユーリスが人族に分け与えたもの。それを操ろうだなんて、どうかしている。人の手でそんなことをすれば、必ず楽園はめちゃくちゃになってしまう。
 シュンランはセイルとディスの会話が終わるのを待っていた。蒼白になりながらも、セイルが「ごめん、続きを聞かせて」と言ったことで小さく頷いて話を再開する。
「詳しいことは知らないです。しかし、ディス……『鍵』を使われるのは世界の危険です。わたしは、これを防ぐです。そのために、目が覚めたと思うです。けれど」
 記憶も何もないシュンランには、何をすればよいのかわからない。途方に暮れかけていたシュンランを救ったのは、シュンランを棺から目覚めさせた人物だった。
「わたしは、『鍵』を持って、わたしを助けてくれた人と一緒にドライグから逃げました。そして、その人はノーグを探すように言いました。ノーグは『鍵』の使い手で、わたしを助けてくれるから、と」
 そして、追われているうちに、シュンランを連れて逃げた人物は『エメス』の追っ手を足止めするためシュンランだけを逃がし、シュンランはセイルと出会ったのである。その人がどうなったのかは、シュンランも確かめられていないようだ。
 そこまでを聞かされて、セイルは唸らずにはいられなかった。いくつも疑問に思う点はある、あるけれど聞いたところでシュンランが答えられることかもわからない。何しろシュンランは、楽園についても自分自身についても何も覚えていないのだから。
 だから、セイルは一番頭の中に引っかかっていることを言葉にする。これもまた、シュンランに言っても仕方ないことではあったけれど、絶対に知っていてもらいたいことではあった。
「シュンランを追ってるのは、『エメス』だよね。だけど、兄貴も『エメス』にいるかもしれない」
「え……っ?」
「シュンランは知らないと思うけど、兄貴が『エメス』の一員だったのは、結構有名だよ。今のことは俺も知らないけど、噂では兄貴は今も『エメス』で悪いことをしてるって話だ」
 ずっと、何かが変だと思っていた。
 異端研究者ノーグ・カーティスは、反女神の秘密結社『エメス』でもかなり高い位置にいたらしい。仲間を殺し行方をくらませた後も『エメス』に身を寄せていて、今も犯罪を繰り返しているのだという噂はセイルの耳にも届いている。
 もし兄ノーグが噂通り『エメス』の一員なら、それこそさっさとシュンランを捕まえて、『ディスコード』を奪い去っていくはずだ。シュンランを「助ける」はずがない。
 だから奇妙だったのだ。シュンランを追いかけているのが『エメス』であると知った時、何かがおかしいと思っていたが、ここでやっとその正体に気づいた。
 兄が、シュンランを助ける。その構図自体がおかしいのだ。
 シュンランはノーグが『エメス』の一員であることも初耳だったのだろう、目を白黒させている。
「なら、ノーグを見つけても、ダメということですか?」
「そういうわけじゃないと、思いたいけど……」
 はっきりとしたことは、何も言えない。セイルには確かめようのないことなのだから。それに、何故シュンランを連れ出した人は「ノーグを探せ」などと指示したのだろうか。疑問が疑問を呼び、セイルとシュンランは黙り込んでしまう。
 すると、頭の中でディスが言った。
『……気に食わねえが、奴に聞くしかねえだろ』
「奴?」
『ブランだよ。奴は、ノーグの手がかりを知ってるって言っただろ。その辺についても何か知ってるかもしれねえ』
「あ……そうか!」
 すっかりブランの存在を失念していた。ブランならば、確かに何か知っているかもしれない。
「でも、兄貴の話を聞くためには、ブランの提案を飲まなきゃならないんだよな」
「はい。セイルは、ブランと一緒に行きたいですか?」
 行きたいか、と問われても困る。
 正直、二人の旅には不安がある。いくらディスがいたとしても、シュンランを守りながら戦い抜けるかというと疑問が残る。それに、セイルとシュンランでは致命的にノーグを探すための手段に乏しい。その点で、ブランに協力を仰ぐのはやぶさかではないのだが。
 反面、何故ブランがシュンランと同行するなんて提案したのか、その詳細な理由がわからないのは恐ろしい。ノーグと『エメス』に用がある、とは言っていたが……
『俺は、一応賛成しとく』
「え、ディス?」
 あれだけブランを毛嫌いしていたディスが、どうして。呆然とするセイルに、ディスはぼそぼそと言う。
『これからのことを考えると、奴には協力を仰ぐべきとは思う。奴の言葉を信じるなら、約束を違えることはなさそうだしな』
 そこで言葉を切って、ディスはぎりと歯を鳴らす。本体がナイフである『ディスコード』に歯などないのだが、その音がきちんと再現される辺り、無駄に芸が細かい。
『ただ、俺個人としてはめちゃくちゃむかつくけどな! あー、あいつ殴りたい! 殴って踏んで踵でぐりぐりしたい!』
「……本音だだ漏れだよ、ディス」
 あと、『ディスコード』には踵もない。
 ディスは『お前にしか聞こえてないからいいんだよ』としれっとしたものだ。毎度愚痴を聞かされるこちらの身にもなってほしいとは思う。
「ディスは、ブランと一緒に行くの賛成だってさ。シュンランは……どうしたいの?」
「……わたしは、あの人が怖いです」
「怖い?」
「あの人は、冷たくて、懐かしくて、不思議で、わからなくて、怖いです」
 懐かしい?
 恐怖を表す言葉としては似つかわしくないが、記憶のないシュンランにとっては、「懐かしい」という感覚すら限りない不安を呼び起こすものなのかもしれない、とセイルは思う。
『ま、思い出さない方が幸せなことってのは多いからな』
 ディスもセイルと同じことに思い至ったのだろう、ぼそりと言った。セイルも、否定はしない。セイルの記憶の中には、思い出したくない記憶もたくさんある。それと同じくらい、忘れてはいけない記憶もあるけれど。
 セイルがどう声をかけたものか迷っているうちに、シュンランはそっと目を閉じて息をつき、それから、ぱっと顔を上げた。開いた目には、もはや恐怖の色はなかった。
「でも、怖がってばかりはダメです。わたし、ブランに話を聞きます。ノーグのこと、『エメス』のこと。知りたいことはたくさんです」
 恐怖を自力で振り払い、シュンランは前を向いて笑う。
 どれだけ、恐怖に潰れそうになる心を奮い立たせてきたのだろう。見ず知らずの世界に投げ出されて、不安に駆られようとも、シュンランは必ず顔を上げる。強い意志をすみれ色の瞳に宿して、笑うのだ。
 それは、セイルにはどうしてもできないことで……心底、まぶしく見える。
『だけど、無理はさせんなよ』
 思うセイルの脳裏で、ディスが暗く囁く。
『シュンランだって、普通の人間だ。誰かが支えてやらにゃ、いつかは潰れるぞ』
「うん……わかってる」
 どーだか、と呟き、ディスは黙った。シュンランはベッドから飛び降り、汚れたドレスの裾を揺らしてセイルを振り向く。
「行きましょう、セイル。ブランを待たせています」
「う、うん。そうだね」
 胸の中に、何かがぐるぐる渦巻くような複雑な心持ちではあったけれど。シュンランが笑うなら、セイルも笑う。
 まだ、笑ってみせることしか、できなかった。