人魚姫【The Little Mermaid】
陸の王子に恋をした人魚姫。魔女と契約し、声と引き換えに二本の足を手に入れるが、恋が実らなければ泡となって消えてしまう。そして、当の王子の心は別の女に向けられて。
有名といえば有名な話だが、楽園の人魚たちはこんな可憐な性質ではないのでご注意。
ちなみに、私は同じ人魚でも、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』の方が好きだ。同じ「悲劇」というカテゴリで、あの爽快とすらいえる結末は最高だと思う。
* * *
「これは、ある魔女から聞いた話よ」
吟遊の魔女アリス・ルナイトは言い置いて、琵琶の弦をぴんと弾いた。
むかし、むかしのお話です。
地図にはない、遠く、遠くの海の上に、小さな島がありました。
鮮やかな色をした珊瑚礁の海に囲まれ、いい香りの花が咲き乱れる、それは美しい島でした。
そこに住んでいるのは、大昔に女神ユーリスから、空に浮かべた女神の方舟を見守るよう命じられた人たちの、遠い、遠い子孫でした。彼らは「目には見えないけれど確かにそこにあるもの」と見ることが出来る目を持っていましたから、女神が方舟を空に隠したその後も、ずっと方舟を追い続けることが出来たのです。
彼らは島に住む自分たち以外の人を知らないまま、女神の言葉を守って空を見上げ続けていました。
しかし、初めは誰もが方舟を見ることが出来ましたが、長い時が過ぎ去って、「見えないものを見る」力はすっかり衰えてしまいました。
それでも、中にはご先祖様よりもずっと強い力を持って生まれる子供もいました。彼らはその子供を「ミコ」と呼んで大切に育て、ある年齢に達すると儀式を行い、島と方舟の未来を託す「ツキヨミ」としました。そうして、女神から与えられた役割を受け継いでいったのです。
この頃のミコは一人の女の子でした。女の子に名前はありません。何しろ小さな島でしたから、儀式を経て名前を与えられるツキヨミ以外は、島の誰もが名前を持ちませんでした。ですから、この頃の女の子はミコであるだけの、ただの女の子でした。
ミコは海が好きで、毎日毎日海を見ていました。普段は鮮やかな緑を含んだ浅い青の海ですが、夕日に照らされれば真っ赤に燃えて、夜は深い紺に染め上げられます。見えないものを見るミコの目には、空を泳ぐ鯨や、海から顔を出す魚と人を掛け合わせた姿の妖精も見えます。ミコはいつも目に映る世界の美しさに目を細め、寄せては返す波にくるぶしを浸していました。
ミコは、それがとてもかけがえのない光景だと信じていました。
もうすぐ、ミコがツキヨミになるための儀式があるのです。その儀式を受ければ、ツキヨミに相応しい力を手に入れることができます。しかし、今ここで見ている風景を二度と見えなくなることも、知っていましたから。
そんなある日、嵐がありました。ミコは島の仲間たちが止めるのを振り切って、海に向かって走りました。予感がありました。海は荒れ狂い、風と雨がミコの体を叩きます。稲光が走る空の下、海岸に倒れる傷だらけの男の子を見つけて、ミコは大急ぎで島の人を呼びました。
流れ着いていた男の子は、ミコのお婆さんであるツキヨミの元に運び込まれました。心配するミコに、頭から布を被ったツキヨミは男の子の傷に魔法をかけながら穏やかな声で言いました。
「この子は大丈夫。だから今日はゆっくりお休みなさい」
そうは言われましたが、その夜ミコは眠れませんでした。嵐の音があまりに強かったこともありますが、男の子が心配で心配で、たまらなかったのでした。
翌朝、ミコが男の子のいる部屋を覗くと、男の子は目を覚ましてびっくりした顔でミコを見ました。
その瞳の色は、ミコがいつも見ている海と同じ、緑を含んだ淡い青。この島の誰とも違う色でした。それがあまりに美しくて、ミコはただただそれに見とれてしまいました。
男の子もしばし呆然とミコを見ていましたが、我に返ると自分を助けてくれたミコに礼をいい、名前を尋ねました。ミコは首を横に振って答えます。
「わたしに名前はありません。この島では誰も名前を持たないのです」
男の子は不思議そうにしながら、自分の名前は「ランド」であるといいました。楽園の南にある、ユーリス神聖国から来たといいました。しかし、ユーリスが女神の名前であることはわかりますが、ミコは地図を知りません。困った顔をするミコに気づいたのでしょう、ランドは窓の外、海の向こうを指しました。
「僕は、あの世界樹の根元から来たんだ」
嵐の後の青い空には、天を貫いて世界樹が聳えているのが見えました。ミコも、その樹が女神ユーリスのもたらした、大地を形作る創世の樹であることは知っていましたが、その根元に町があり、人が住んでいるということは初めて知りました。
そこには女神ユーリスがおわす神殿があり、今もなお楽園の人々を見守ってくれているのだとランドは言いました。そして、自分はその神殿に仕える神官の一人なのだとも。
「まだ、見習いだけどね」
ランドは言って、海色の瞳を細めて笑いました。けれども、すぐに悲しそうな顔になって言いました。
「きっと、司祭様や、仲間たちは海に沈んでしまったんだ。僕一人だけが、生き残ってしまった」
ランドの白い頬に、つうと透明な涙が流れます。ミコはランドに何を言えばいいのかわかりませんでした。ランドが悲しいのはわかりますが、ミコは慰められたことはあっても、人を慰めたことは無かったのです。
ミコに出来ることは、膝をついて、ランドの手をそっと握ることだけ。
ミコと変わらないくらいの年のころに見えましたが、ランドの手はミコのものよりもずっと大きくて温かく、柔らかでした。血の通った、手でした。
「泣かないでください」
ミコは、ランドを見上げて言いました。
「あなたが泣くと、わたしの胸もきゅっとなるのです」
ランドははっとしてミコを見て、それから涙を拭いました。まだ悲しみはあったのでしょう、しかし確かに笑ってみせました。
「そうだね、泣いているだけじゃ駄目だね。ねえ、僕にこの島のことを教えてくれないかな」
問われて、ミコは笑顔で頷きました。
その日は日が沈むまで二人で色んなことを話しました。ミコはこの島の成り立ちや普段の暮らしを喋り、ランドは自分の生まれた街のことを話しました。ランドの話の全てがミコの知らないことばかり、ミコは目をきらきらさせながらランドの話に聞き入りました。
しかし、突然、扉が大きな音を立てて開き、島の中でも力仕事を生業とする男たちがランドの腕を掴んで立たせました。
「何をするのですか!」
ミコが叫ぶと、男たちはミコには深く頭を下げて言いました。
「傷も癒えましたので、この子供は我々の家で預かることになったのです、ミコ様」
どうして、と問うても大人たちの話し合いで決まったから、という答えしか帰ってきません。じりじりするミコに対し、ランドは不安げに腕を掴む男たちをきょろきょろと見ていました。
男が「行くぞ」と一際強く腕を引きます。男たちに引きずられるような形で部屋を出ていくランドは、
「またね」
精一杯の笑顔で言って、手を振りました。
だから、ミコも笑顔で「またね」と言いました。
けれども、大人たちは、いい顔をしませんでした。
ランドとは会わない方がいい……その理由は教えてはくれないまま、大人たちはランドに会いに行こうとするミコを、ツキヨミの家に閉じ込めてしまいました。儀式も近いのだから、ここで大人しくしていなさい。大人たちは口々に言いました。
けれども、ミコは毎日大人の目を盗み、家をこっそり抜け出してランドに会いに行きました。
何しろ、ミコは次のツキヨミです。ツキヨミを除けば島の誰よりも強い力を持ち、大人たちの目を誤魔化す魔法だっていっぱい知っていました。
ある朝も、家を抜け出そうとしましたが、その時、ツキヨミに見つかってしまいました。しかしツキヨミは大人たちと違い、ミコを捕まえようとはしませんでした。
「今日もあの子のところに行くのかい」
「はい、お婆さま」
「あの子とお話をするのはそんなに楽しいことなのかい」
ミコは頷いて、ランドから聞いたお話をツキヨミに聞かせました。美しく賑やかな街のこと、神殿に仕える人たちのお話、美味しいご飯に心をわくわくさせる音楽。
「外には、素敵なものがたくさんあるのですね、お婆さま!」
「そうかいそうかい。それで、お前はこの島の外に出たいと思うかい?」
その問いには、ミコは首を傾げてしまいました。
確かに、ランドの見てきた世界を、一度見てみたいとは思います。しかしこの島から離れる、ということは想像できませんでした。それはそれは、恐ろしいことであるように感じられたのです。
答えられないミコの頭を、ツキヨミは優しく撫でました。
「それでいいのだよ、ミコ」
何が、いいというのでしょうか。
わからないまま、ミコはツキヨミの手を振り切って駆け出します。ランドに会いたい。強く、強く、そう思いました。
ランドは、海岸で何かをしていました。ミコが顔を覗かせると、ランドはぱっと顔を明るく輝かせてミコに挨拶しました。ミコも笑顔になって、ランドの横に座ります。砂の上には、ランドが作ろうとしている何かが転がっていますが、何なのかはわかりません。
「何をしているのですか」
「船を作るんだ。この島を出て、家に帰るために」
「帰って……しまうの、ですか」
それは、とても残念なことだと思いました。寂しいことだと思いました。こんな思いになったのは初めてです、何しろ、この島にいる限り、世界樹に還ること以外のお別れの形があるとは思ってもいませんでしたから。
ランドも、少し名残惜しそうにミコを見て、それから言いました。
「一緒に来る?」
「え?」
「僕と一緒に、ユーリス神聖国に。街、見たいって言ってたもんね」
見終わったら帰ってくればいい、それなら許してもらえないかな。
そのランドの言葉は、とても、とても、甘い響きでした。そうです、外はただ恐ろしいものだとばかり思っていましたが、本当に恐ろしければ帰ってくればよいのです。そんな簡単なこと、何故気づかなかったのでしょう。
けれど、今行くわけにはいきません。それだけは確かだったので、もう少し待って欲しいとミコは言いました。不思議な顔で何故と問うランドに、その理由をそっと教えます。
「儀式があるのです。その儀式で、わたしはツキヨミになります。ツキヨミは、女神様からお願いされたお仕事をする、大切なお役目なのです」
「どのような儀式なの?」
「前の代のツキヨミから、名前を貰います。女神様が決めた『旧い月の名前』の中から、一つ。そして、この世の目を潰します」
「……どういう、こと?」
「わたしたちには、見えないものを見る目があります。この目で、人の目から隠された方舟を見守ることがわたしたちのお役目です。しかし、この世の目が見えていると、見えるものに心が向けられて、見えないものが見えなくなってしまうのです」
だから、目を潰すのです。この世の目を潰して、見えないものを見る目を育てるのです、と言いかけたところで、ランドがじっとこちらを見ていることに気づきました。何故、そんな怖い顔で見ているのでしょう。不思議に思っていると、ランドがぐっとミコの手を握りました。
「君は、それで、いいのかい?」
「何が、ですか?」
「目が見えなくなる、ってことは……この風景も、人の顔も、何もかも、わからなくなるってことなんだよ? それが怖くないの?」
怖い……何が、でしょうか。
ミコはそう思いました。見えなくなるといっても、何もかもが見えなくなるわけではありません。建物や生きている人を区別するのは難しくなるといいますが、見えないものが見えているのですから、生きるのに困ることはないとツキヨミのお婆さんは常々言っています。
だから、何も怖くない、はずなのに。ふと、心の中に一点、黒いものが落ちたような気がしました。
もしも儀式を受けてしまえば、ランドが見てきた外の世界も見えなくなってしまいます。目に見えないものたちの姿は見えるかもしれませんが、人の賑わいや美しい町並み、それらが全て闇の中に沈んでしまうということです。
大好きな海の色も、ランドの瞳の色も、わからなくなってしまうということです。
それは、実はとてもとても恐ろしいことではないでしょうか。すっと血の気が引く中、ランドがいつになく激しく言いました。
「お役目は、君じゃないと果たせないのかい? 君だけかもしれないけど……いくら女神様のためだっていっても、それは何か間違ってるよ。だから、一緒に行こう。この島の外に」
ミコはぼうっとするだけで、ランドの呼びかけに頷くこともできません。
ただ――初めて。
ツキヨミになることが、怖いと、感じたのでした。
それから、数日が経ちました。
ランドについていくか、否か。それを決められないまま、儀式の日がやってきました。ランドの船はほとんど完成していて、今日にでも出航できるということでしたが、ミコは儀式のために朝からツキヨミと大人たちに囲まれていて、ランドのところに行けずにいました。
ツキヨミの装束である白い服に身を包み、島で一番女神の方舟がよく見える高台、『ジェイコブスラダー』に向かって歩きながら、ミコはランドのことを考えました。ランドは自分のことを待っているでしょうか。それとも、ミコが来ないと思って海に出てしまったでしょうか。
最後に、もう一度会って、きちんとお話をしたい。
行くにしろ、留まるにしろ。
胸の中に割り切れない思いを抱えたまま、ツキヨミになることは出来ません。
思った途端、ミコは大人たちの手をかいくぐって、海岸に向けて走り出しました。まだ、きっと、ランドがそこにいるということを信じて。裸足で、走って、走って、走りました。
そして、海岸に辿りついて、見たものは。
ばらばらになった船と、ばらばらになったランドでした。
ふらふらとミコはランドの元に歩み寄り、膝をつきました。そっと、ランドの手に触れてみます。血が通い、温かかった大きな手は、もう、とっくに冷たくなっていました。
ランドの周りに居た大人たちが血まみれの手を振りかざして言います。
この子供は、ミコをたぶらかそうとした恐ろしい子供だ。惑わされてはいけない。外は恐ろしい場所だ、この子供は魔物が人の姿を借りていたのだ。次代のツキヨミを島から逃がそうなんて、許されるはずもない。
けれど、その言葉のどれも、ミコには届きません。ランドが殺されてしまった。その事実が、ミコの小さな心を押しつぶしてしまったのです。ランドが死んだことを悲しむことも、ランドを殺した大人たちに憤ることも忘れたミコを、大人たちは儀式の場に連れて行きました。
そこでは、ツキヨミのお婆さんが、とても悲しそうな目でミコを見ていました。何を思って、ツキヨミはミコを見ていたのでしょうか。それも、ミコにはわからないまま。
儀式は、淡々と進みました。
淡々と、淡々と、淡々と――
ミコは全てを受け入れました。何を思うこともなく、何を感じることもなく。両の目が何を映さなくなっても、もう、何もかも、ミコにとってはどうでもいいことでした。
一番見たかった、ランドの笑顔はもう何処にもありません。誰も、ランドが見た世界へは連れて行ってくれません。だって、そのランドはもう、何処にもいないのですから。
儀式が終わり、ツキヨミとなったミコを祝う祭りが始まりました。けれど、ツキヨミのミコは独りきり、海岸に座っていました。目はすっかり見えなくて、海がどのような色をしているのかもわかりません。ばらばらになった船とランドは、いつの間にか片付けられて、何処に行ってしまったのかもわかりません。
ツキヨミのミコの盲いた両目から、ぼろぼろと涙がこぼれました。これは、悲しみでしょうか、怒りでしょうか。それもわからないままに、折った膝を抱えて涙を流します。
ああ、ああ。
ツキヨミのミコは叫びます。それは怨嗟の声でした。何故、ランドは死ななくてはならなかったのでしょう。何故、大人たちはわたしたちを許してくれなかったのでしょう。ああ、憎い、何もかもが憎い。わたしの世界の不条理が、わたしの世界の無意味さが。
叫び続けるツキヨミのミコに、
「ああ、可哀想なお嬢さん」
風の妖精が囁きます。
「あなたの声に応えましょう。あなたは何を望みますか?」
雨の妖精が囁きます。
望み。そんなもの、ただ一つに決まっています。
ツキヨミのミコは涙を拭いて、真っ暗な海を、見えない目で見つめました。
そうして、一歩、歩み出します。海に向けて、真っ直ぐに。
空はにわかにかき曇り、強い風が吹き荒れて、大きな大きな波が島に迫ります。背後で騒ぐ人の声を聞きながら、ツキヨミのミコは高らかに笑います。笑って、笑って、笑い続けて、真っ白な服を脱ぎ捨てて、魚のように白い裸身を輝かせ、荒れ狂う波の中に消えました。
その後、嵐は小さな島を中心に、三日三晩続きました。そして、海に消えていったツキヨミのミコがどうなったのか……それは、誰も、知りません。
何もかも、何もかも。誰も知らない、物語です。
――どこからどこまでが真実なのか?
聞き手の問いに、アリス・ルナイトはにやりと笑みを浮かべて答えた。
「そんなの、私の知ったことじゃないわ」
不思議の国の紫苑