頬から頭に突き抜けた衝撃。
それを痛みと認識するよりも先に、身体が地面に叩きつけられていた。
朦朧とする頭の中に、鮮烈に焼きついたのは「構うな、火をつけろ」という声。そして、暗闇の世界のあちこちに放たれた炎の赤。
止めろ、という声は届かない。伸ばした手も、ただ、空を切るばかり。
廃品の山を飲み込みながら燃え上がっていく炎を、ヤスは、ただ地面に這い蹲って見つめているだけで――。
「いやー、派手にやられましたねー」
気の抜けた声が降ってきて、中央隔壁外周治安維持部隊隊員、ヤスは反射的にそちらに視線を向けた。
焼け焦げながらも形を残していた、積み上げられた物資輸送缶。その上に座っていたのは、ヤスと同い年か少し下と見られる黒髪の青年だった。ゴミ捨て場から拾ってきたのだろう、擦り切れ、薄汚れた襤褸を幾重にも纏い、煤けた眼鏡をかけた優男だ。
「エリック」
ヤスが名前を呼ぶと、エリック青年は、軽々と缶の上から飛び降りてきた。ざ、とほとんど裏がはがれかけた靴が踏んだ地面は、黒い煤に覆われていた。
今や、この区画の全ては煤と灰の中にあった。
廃品街。中央隔壁――通称『裾の町』外周の一角に位置するそこは、呼び名通り、宿無したちが廃品を集めて作り上げた、一個の居住区だった。もちろん統治機関《鳥の塔》はそんな宿無したちの行動を認めてはいない。ただ、塔が積極的に外周の統治を行っていないが故に、そこはかりそめの場所とはいえ、宿無したちに一夜の安らぎをもたらしていた。
そう……あの夜までは。
ヤスが所属する外周治安維持部隊が、「疫病の発生源となりえる」 「塔の許可も得ず住み着いた鼠に人権などない」などの諸々の適当な理由で、突然この区画を焼き払うまでは。
人の気配も完全に失われたかつての廃品街を見渡して、エリックはヤスに微笑みかける。
「ご安心を、住民の避難は完了しておりますゆえ。死者、怪我人共にゼロですよ」
その言葉は、ヤスも予想だにしていなかった。思わず目を見開いて、エリックを凝視してしまう。
確かにあの時、夜間の焼き討ちとはいえ、逃げ出す者や悲鳴を上げる者が一人もいなかったことに、隊長や他の隊員たちも困惑していた。結局、その後ろくに現場を調査はしなかったから、人がそこにいたのどうかも確かめられていなかったのだが。
ヤスは、あの時隊長に殴られた痛みを思い出し、未だに腫れている頬をさすりながら、言った。
「あの日焼き討ちがあるなんて、俺だって知らなかったんだ。どうしてお前がそれを?」
「それは、企業秘密ってことでお願いします」
言って、唇の前に人差し指を立てる。
「まあ、徐々に人は戻ってくるでしょうし、ここも元通りになりますよ」
「戻ってきても……また、同じことが起こるだけだろ」
そうだ。今回だけではない。
これまでも、そしてこれからも。外周治安維持部隊は、外周の住民を顧みぬ「治安維持」を続けていくのだろう。
塔の援助を受け、旧時代とさほど変わらぬ生活水準を維持している内周に対し、外周は塔からは半ば見捨てられた区画である。最低限の物資援助はあるが、外周に生きている人々全てを生かすには、到底足らない。故に、人々は肩を寄せ合い、時には奪い合いながら細々と生きるしかないのだ。
当然、《鳥の塔》からそんな場所に派遣される外周治安維持部隊は、兵隊の間では極端に不人気な隊として知られる。それも当然だろう、誰が好き好んで汚らしい外周に派遣されたがるというのか。己から治安維持部隊への配属を願うのは、それこそヤスのような、外周出身の兵隊くらいだ。
それで部隊を構成するのが外周出身の兵隊のみであれば、もう少し状況は変わったのかもしれないが……代々の治安維持部隊は、他の部隊に回せないような、しかしプライドだけは肥大した貴族出身の阿呆によって、外周出身の兵隊が抑圧される構図が一般的だ。
その構図は、そう簡単には変わらないだろう。自分たち、外周出身の兵の声など、塔上層の貴族どもに届くはずもないのだから。
ヤスは、今一度、あの阿呆極まりない隊長の姿を思い出し、腫れた頬を撫ぜた。先代隊長は無気力で知られたが、今の隊長は、とにかく外周そのものが憎いのか何なのか、時々発作のように、ほとんどの人間には凶行としか映らない行動に走る。
不要なものは浄化されなければならない。この隔壁で息をしていいのは、塔に認められた者だけだ。そんな隊長のヒステリックな声が脳裏に蘇る。
「怒ってないのか、俺を」
考えているうちに、言葉が、半ば無意識に唇から飛び出していた。すると、エリックは苦笑を浮かべて、諭すように言う。
「ヤスさんのせいじゃないでしょう。見ましたよ、隊長を止めようとしていたところ」
一体どこから見ていたのか、と思ったが、この青年は神出鬼没に定評がある。あの瞬間に、誰からも気づかれない場所から一部始終を見届けていたところで、不思議はない。
「それでも、結局止められなかった。止められなきゃ、何も変わらねえよ」
「……そう、ですか」
エリックは、溜息と共に言葉を落とし、視線を焼け跡に戻した。
しばしの沈黙。風が、辺りの焼け残ったものたちの間を通り抜けて、悲しい音を立てる。その静寂に耐え切れなくて、ヤスはエリックの横顔を見て問うた。
「エリック、お前はどうするつもりだ。お前も、帰る場所無くなったんだろ」
一瞬、エリックはきょとんと首を傾げたが、「はは」と小さく笑う。
「まあ、何とでもなりますよ。では、また」
襤褸を翻し、たん、と軽く地面を踏む。それだけで、決して小さなものではないエリックの身体は軽々と宙に浮き、焦げた廃品を足場に灰色の空に駆け上ったかと思うと、瞬く間に立ち並ぶ建物の向こうに消えていった。
まるで、獣のようだ。青年の姿が消えた辺りを呆然と眺めながら、ヤスは思った。だが、エリックがどこか人間離れした挙動をするのも、いつものことで。そこまで深く考えることもせず、詰め所に帰ろうと踵を返した、その時だった。
頭に、何かがぶつけられて、はっとそちらを見る。
すると、焼け跡に隠れるように、数人の子供がこちらを睨みつけていた。そのうちの一人……ヤスの足下に転がる石を投げたであろう少年が、甲高い声で叫ぶ。
「裏切り者!」
その声に合わせて、子供たちは口々に、兵隊の格好をしたヤスを「裏切り者」と罵りながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
ヤスは、そんな少年たちの後姿を見送った後、拾い上げた石を、きつく握り締めて。
ただ、白い息を吐き出すことしかできなかった。
終末の国から