無名夜行 五人六葉

31:遠くまで

 ――『異界』。
 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、この世から見たあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
 これは、数多の『異界』に『潜航』という名のアプローチを行い、観測したデータを積み上げてゆくことで『こちら側』と『異界』との付き合い方を探る国家主導のプロジェクトだ。
 とはいえ、私が率いるプロジェクトは極めて小規模なものだ。現在この場に集っているのは、この業界では若手と言うべき研究員がリーダーである私含めて五人。
 現代における『異界』研究の第一人者たる師の元で共に学び、師が『こちら側』を去ってからも共に研鑽を続けてきた、これからも長い付き合いになるであろうサブリーダー。
 私が持たない角度からの視点と「ひと」の心身に対する造詣の深さに惚れこみ、業界から去ろうとしたところを無理やり引き留めた結果、今の今まで留まってくれているドクター。
 口先では「利害関係の一致」と嘯きながら、おそらくは我々への恩義を理由に、確実な『潜航』のために正気と狂気の狭間で全力を尽くしているエンジニア。
 プロジェクトに参加した順番こそ最後に当たるが、他の誰にも劣らぬ豊富な『異界』の知識と、鋭い分析力、何よりもその明るく親しみやすい人格で我々を支えている新人。
 それから、正確にはプロジェクトのメンバーではないが、監視役という難しい立場にありながら我々に手を差し伸べ、国の上役との板挟みになりながらも可能な限り便宜を図ってくれる監査官。
 そして――。
 机の上に置かれたノートを手に取る。ありふれた、大学ノート。青色の、ところどころが擦れた表紙には何も書かれておらず、中に何が書かれているのかをそこから窺うことはできない。
 結局、私の手元にあるこのノートだけが、今や「彼」を知る唯一の手段になってしまった。
 ページを開く。はねやはらいが強く意識された、角ばった几帳面な文字が並ぶ。それは、一人目の異界潜航サンプル――Xの記録。
 Xはいつだって多くを語らなかった。私が促さなければ口を開きすらせず、口を開いても、客観的な分析を告げることはあっても、彼自身の感想はお世辞にも多いとは言えなかった。
 その代わりに、ずっと、彼なりの記録を残していたということを知ったのは、彼が研究所を去ってからのことだった。
 それはごくごく個人的な記録で、このノートが他者の手に渡る可能性は微塵も考えていなかったに違いない。いや、もし考えていたとしても、彼の手を止める理由にはならなかった、のかもしれない。
 ぱらぱらとノートをめくって行けば、そこにはめくるめく『潜航』の記録が彼の言葉で記されている。それだけでも読み込むに値するものだったが、何よりも私を驚かせたのは、Xによる「我々」についての所感だった。
 我々はXに対して己の話をほとんどしていなかったはずだ。それぞれの名前、それから肩書と役割、その程度。だが、Xの前でお互いに話していた内容や、研究室で起こった些細な出来事、ちょっとした癖、そういったものから見事なまでに我々を分析していたということを、彼がいなくなった今になって理解させられたのだ。
 本当に、代えがたい人物だった。異界潜航サンプルという肩書きを抜きにしても、稀有な人物。
 ノートの最後の数ページは白紙であったから、最後の文字が書かれたページでめくる手を止める。指先で、そこに書かれた一文をなぞる。
 
『僕は、彼らの行く末を知ることはできないが、』
 
 それは、もう、どこにもいないその人による、

『彼らが、僕も知らない遥か遠くまで、歩んでゆけることを祈っている』

 ――祈り、だった。