「お酒は飲みますか?」
「そうですね、嗜む程度ですが」
Xが答えると、「実はね、うちで作ったお酒があるんですよ」と言って、その人は嬉しそうに笑ってみせた。
ディスプレイ越しに見るその人の姿かたちを、正確に語るのは難しい。何しろ、視界の中で常に変化し続けているように見えるのだ。大きく見えることもあれば、小さく見えることもある。老若男女の別も定かではない。色も、髪の長さも、眺めている間に自然と移り変わっていく。
果たして、それを「人」と言っていいものかどうか、という疑問はあるが、それを言ってしまえば全ての『異界』で出会う「人間らしきもの」についても同じことなので、変化はしつつも『こちら側』で言う人間の形から逸脱していない以上、「その人」と表現することにする。
「ちょっと待っててくださいね。今、持ってきますから」
「いいんですか」
「もちろん。お酒は飲むためにあるんですから。久しぶりのお客様に飲んでいただけるというなら、尚更です」
その人の姿が、扉の向こうに消えていく。
通された部屋は、外から見た小屋の印象同様に、小ぢんまりとしていたが、よく整えられていた。四人掛け程度の大きさのテーブルに、清潔な白のクロスがかかっている。置かれていた椅子は二脚、あらかじめ、Xのために用意されているかのようだった。
手持無沙汰になったXの視線が、窓に向けられる。外に広がるのは、一面の果樹園。その人がたった一人で世話しているのだという木々を眺めながら、私は、そこに実る果実の姿を思い出す。
果樹園に降り立ったXが目にした果実は、空の色をしていた。晴れ渡る青空、雨雲の色、星々が煌めく夜に、夕焼けの赤。様々な空を閉じ込めたかのような丸々とした球体が、緑の木々に実っていたのだった。
呆然と木々を見上げているXに不意に声をかけてきたのが、その人だった。
「やあ、珍しい。こんなところに人がいるとは。迷子ですか」
似たようなものです、とXは小声で言った。わずかに肩を竦めたかもしれなかった。そして、改めて木になった果実を見上げて、その人に言ったのだった。
「不思議な、実ですね」
「そうでしょう。うち以外では育たないんですよ。おいしいんですが、少々気難しい」
それが何の実であり、どのような仕組みによってこんな不思議な色をもたらすのか。その人の口から語られることはなかったし、おそらく、説明されたところで理解はできなかっただろう。『異界』の事物とは、ほとんどの場合そういうものだ。
かくして、その人は、久しぶりの客であるらしいXの来訪を喜び、果樹園の中にぽつんと存在する一軒家に招いてくれたのだった。
窓の外をぼんやりと見つめているうちに、その人が部屋に戻ってきた。Xがそちらに視線を向けてみれば、その人は手に盆を持ち、上には二つの細長い形状のグラスと、一つの瓶が載せられていた。瓶には深い色がついており、特にラベルなども貼られていないため、中に何が入っているのかをその見た目から知ることはできない。
「うちの果実を使った酒のなかでも、これはとっておきでしてね。ひとつ、自分のためにとっておいたんです」
言って、瓶の口を塞ぐコルクを固定していた針金をほどき、コルクを抜こうとする。しかし、随分固く口に食い込んでいるのか何とも難儀な様子で、思わずXが立ち上がって手を伸ばす。
「開けましょうか」
「すみません、お願いできますか」
はい、と言ってXは瓶を受け取る。Xはしばし瓶を観察し、それからコルクに指をかける。軽く力をかけたところで、ぽん、と音を立ててコルクが瓶の口から外れた。
Xがぱちり、と目を瞬かせたのが、ディスプレイの視界の瞬きからわかる。
「……いい香り、ですね」
「でしょう?」
Xの五感の中でも嗅覚は、我々には伝わらない情報の一つだ。ただ、Xがわざわざ香りに言及したからには、意識をそちらに向けずにはいられないほどの香りだったに違いない。
瓶がその人の手の中に返される。その人は、「よく見ていてください」と言ってグラスに瓶の中身を注いでいく。
細長いグラスを満たすのは、しゅわしゅわと音を立てる――深いピンクから淡い紫、やがて青へと変化していく、柔らかくも鮮やかなグラデーション。細かな泡を立てながらグラスに満ちていく複雑な色合いから、目が離せなくなる。
「きれいでしょう」
「はい。……これは?」
「これはね、朝焼けの色だけを集めた酒なんです。ここまで鮮やかな朝焼けはなかなか見られないですからね、そうそう作れないんです」
それに、時間が経てば、この色もすぐ消えてしまうのだ、とその人はいう。
日が昇れば見えなくなってしまう、朝焼けのように。否、この瓶に満たされていたのは、まさしく「朝焼けそのもの」、であったのかもしれない。椅子に座ってテーブル越しに向かい合い、徐々に色が移り変わりゆきつつあるグラスを手に、その人はにこりと笑う。
「では、朝焼けが朝焼けであるうちに」
Xも「はい」と頷いて、無骨な指先でグラスの細い脚を支える。
持ち上げられる――透明な硝子の中に閉じ込められた、明け方の刹那の空が、ふたつ。
「乾杯」
無名夜行 三十一路