無名夜行 三十一路

17:その名前

 私は、未だにXの名前を知らない。
 連続殺人犯の死刑囚であることはわかっているのだ、調べれば名前と経歴くらいすぐに判明するだろうが、あえて調べる必要を感じない、というのが第一の理由。それに加えて、Xは、『異界』においても自らの名を名乗ったことがないのだ。
 大概は名乗る機会そのものがないのだが、誰かに名を問われたとしても「名乗るほどの者ではない」と言って、名乗りを避けているようにも思える。
 別に深い理由はないのだろうが、こと『異界』においては、もしかすると適切な態度なのかもしれなかった。
「みだりに名乗らぬのはいいことだ。名前は、魂と密接に結びついているからな」
 と、言ったのは、ディスプレイに映し出された女性だった。
 金色に眩く輝く部屋の中、宝石をちりばめた豪奢な椅子に腰かけているのは、とにかく、美しい女性だ。波打つ長い髪は、つややかな烏の濡れ羽色。露出の多い扇情的な服装をしており、剥き出しになっている肌の色は、黒檀を思わせる。同性の私から見ても魅力的な姿をしている女性が、長い睫毛に縁どられた目で、真っ直ぐにXを見据えている。
 Xは、椅子の前に跪き、この女性と向き合いながら、一体何を考えているのだろうか。もちろん、私がXの内心を窺い知ることなど、できやしないのだが。
「名を伝えるということは、相手に運命を握らせることだ。……握られたい、というなら話は別だがな、こやつらのように」
 女性は長くしなやかな指で、周囲に侍らせている者たちを指す。ほとんどが若い男性で、たくましい体つきをしている。ただ、彼らからはことごとく生気が感じられず、誰も彼もが同じような、ぼんやりとした表情をしている。
 女性が話している間、しばし押し黙っていたXが、低い声を放つ。
「彼らは、自ら望んで、あなたに名前を伝えた、ということですか。そして、彼らを従わせた」
 ああ、と女性は頷いてみせる。上に立つ者特有の、自信と余裕に満ちた振る舞い、というべきか。しかし、Xはそんな女性に対しても特に物怖じする風もなく、いつも通りの平坦な調子で言う。
「実はですね、麓の村の人たちが困ってるんですよ。若い男の人が、みんな、ここに来てしまって、村が立ち行かないと」
 そう、Xは人に頼まれてここにいるのだ。『潜航』の最初にXが降り立ったのは、山の麓にある、小さな村だった。そこはひどく貧しい村で、住民は日々の暮らしも満足に送ることができずに苦しんでいた。そして、村人たちは口々にXに語ったのだ。
 それもこれも、古くから山に住まう魔物が、気まぐれに若い男たちをさらってしまい、働く者がいなくなってしまったからだ、と。
 かくして、Xは村人たちに頼まれてここにいる。山の魔物から、男衆を取り戻してほしい、と。
 私がXに命じているのはあくまで『観測』であって人助けではない。しかし、『異界』での行動をXに委ねている以上、こうなるのもわかりきった話でもある。Xは、「困っているとわかっているのに放っておくのは気分が悪い」という程度の理由で、赤の他人に手を差し伸べずにはいられない性質なのだ。
 山の魔物――と呼ばれている女性の目が、細められる。けれど、何を言うでもなく、顎の動きひとつで話の先を促せば、Xはごくごくはっきりと言った。
「彼らを、村に返していただけませんか。私の要求は、それだけです」
 それだけ、という言葉の通り、Xはそれ以上を語ることはなかった。ディスプレイの中で、女性のふっくらとした唇が笑みの形を描く。しかし、その目は笑ってはいなかった。
「それが人にものを頼む態度か? 要求には、対価が必要だということも知らないのか」
「あるべき対価を支払っていないのは、そちらです。私は、不当に奪われたものを返してほしい、と望んでいるだけです」
「不当? 言ったろう、こやつらは、自ら望んで私に名を伝え、私に従うことを誓ったのだ。不当なことなどありやしないさ。その結果、村がどうなろうと知ったことはない」
「あなたは、彼らに『自ら望ませる』ために何もしていないとは、言っていない」
 ぴくり、と、女性の眉が持ち上がる。Xの目は、そのわずかな変化を確かに捉えていた。
 なるほど、名前を無理やり聞き出した、とは言っていないが、しかし「自ら言いたくなる」ような目に遭わせていない、とも言っていない。大事な部分さえ隠してしまえば、言葉の上では、何とでも言えてしまう。
 あながち、Xの指摘は的外れではなかったのだろう。女性は笑みを深めるも、その笑みは獰猛な獣を思わせた。Xを威圧し、自らの前にひれ伏させようという、暴力的な意図を込めた笑顔。ただ、どうにも相手が悪い。Xは跪いたままの姿勢ではあったが、変わらず女性を見据えている。目を逸らすこともなく。
「別に、それをどうこう言うつもりはありません。私は村の人間でもないので、あなたを罰したいとも思わない。ただ、あるべきものを、あるべき場所に返してくれれば、それだけでいい」
 Xの言葉は、いっそ穏やかですらあった。きっと、表情もいつもと何も変わらぬ――それこそ、周りで魂を抜かれたような顔をしている男性たちと大差ない、冴えないぼんやりとした顔つきなのだろう。
 それでも、もしくは、それ故に、と言うべきか、女性にとっては耐え難い屈辱に違いなかった。馬鹿にされている、と思われても仕方がない。女性は椅子から立ち上がり、跪いたままのXを睨む。もはやその顔から笑みは消えていて、黒い瞼が見開かれ、怒りを込めた目がぎらぎらと輝いている。
「いい加減にしろ。こやつらはもはや我のものだ。そのような下らぬ弁舌で我の所有物を奪おうとする貴様の方が、盗人猛々しいということがわからぬか」
 女性の、すらりと伸びた足が大きく一歩を踏みこむ。彼我の距離が一瞬で縮まり、女性は高い場所からXを見下ろす。そこには、言葉にできない、一種の凄みのようなものがある。
「これから、貴様は、我にひれ伏し、許しを乞うことになる」
 女性の言葉は、Xが必ず自分の前にひれ伏す、自分にはそうさせるだけの力がある、という確信に満ちている。一体、Xに何をするつもりなのか。ディスプレイの中から投げかけられる敵意に満ちた視線を受け止めながら、思わず手を握ってしまった、その時だった。
「そうですか。交渉決裂ですね」
 Xはいたって静かにそう言って、私にとってはただの「意味のない音の羅列」でしかない声を、続けた。
 途端、女性の目が見開かれ、頭を押さえてふらついた。美しい顔が、怒りではなく苦痛によって歪む。
「きちんと発音できてましたか」
「き、貴様、何故、」
 ――その名前、を。
 名前。そう、Xの放った音は、名前だ。山の魔物だという、この女性を示す名前。
 Xは跪いた姿勢のまま身じろぎ一つせず、ただ、言葉だけを続ける。
「村の子供が、歌っていた、古いわらべ歌に。山の魔物にまつわる歌が、あって」
 それは、山の魔物を退ける方法を歌ったもの。枯れ草を焚く、決まった方角に向けて頭を下げる、三人で手を繋いでぐるぐる回る……。そんな迷信めいたまじないを伝える歌の中に、意味の分からない音が混ざっていたのだ。子供たちも、それを子供に向けて歌い継いできた大人たちも、意味も分からず「そういうもの」として歌ってきた、もの。
 だが、それこそが、誰も知らないものと思われていた、山の魔物の名なのではないか?
 このような他愛ないまじないで山の魔物を退けられると信じられていたのも、山の魔物を縛る名前が、まじないとともに伝えられていたからではないか?
 そう考えて、Xはあらかじめ子供たちからわらべ歌を教わっていたのだ。他言語特有の発音に慣れないために、子供たちから再三ダメ出しをされ、子供特有の心無い言葉をぶつけられていたが、どうやらその苦労も無駄ではなかったらしい。
 Xは苦しみに唸り声をあげる女性の名前を、もう一度、呼ぶ。
「彼らを、返してください」
 それは、もはや要求ではなく「命令」だった。名前によって魂を縛られた山の魔物は、耳の奥の奥まで届くような、甲高い悲鳴を上げる。
 耳障りな悲鳴と同時に、目に映る風景がぐにゃりと歪み、瞬きひとつのうちに、豪奢な椅子も金色の部屋も、そして女性の姿もすっかり消え去る。そして、森の木々が暗い陰を落とす山の中、その場に跪くXと、きょろきょろと不思議そうに辺りを見渡す男性たちだけが残されていたのだった。
 状況がわからない、という顔で立ち尽くす村の男性たちに、Xは膝についた土を払って立ち上がりながら、事情を説明する。山の魔物に惑わされ、今まで操られていたのだということ。
 どうやら、彼らの頭の中からは、魔物との間に何があったのか、という記憶がすっかり抜け落ちているようだった。どうして山に赴き、魔物に名前を委ねてしまったのか、その詳細を知ることはできそうになかった。ただ、Xに助けられた、ということは理解したようで、彼らはXに向かってぺこぺこと頭を下げ、何度も感謝の言葉を述べた。
 やがて、男性の一人が、こう言った。
「あなたは村の救い主だ。どうか、名前を教えてもらえないか」
 その問いに対するXの返答は、もちろん、決まり切っている。
「名乗るほどの者では、ありませんよ」