無名夜行 三十一路

14:幽暗

「随分、遅くまで付き合わせてしまったわね」
 時計を見れば、本日の『潜航』を終了してから三時間が経過していた。
 別に『潜航』に問題があったわけではない。ただ、ちょうど医療スタッフがXの健康状態のチェックを行う日であり、同時に定期的に実施することになっている上への報告のために、Xに聞き取りを行うべき日でもあり。しかし、その他の作業も併せて行わなければならない、とばたばたしているうちに、すっかり時間が経過してしまったのだ。
 とはいえ、我々の都合でかなりの時間を待たされていたはずのXは、特に気にしていないとばかりに軽く首を振って、それからわずかに眉尻を下げてみせる。
「私に、何か、手伝えることがあればよかったのですが」
 こういうところがXらしいというか、何というか。我々に待たされる分には何も思うことがない一方で、我々がばたばたしている中で、一人手持ち無沙汰にしているというのは、どうにも落ち着かなかったのだろう。
 とはいえ、ここはきちんと線引きすべき部分でもある。
「それは、あなたの役割ではないわ」
 Xはプロジェクトのメンバーではなく、あくまで異界潜航サンプルだ。生きた探査機、もしくは実験動物。我々の指示に従い、『潜航』を繰り返すだけの存在。我々がそう考えてXを「使って」いる以上、Xもまた、我々に気を遣う理由などないのだ。
 そうですね、とぼそぼそ返事をしながらも、Xは何とも居心地悪そうに体を縮める。
「そんなに気にしないで、ってことよ。今日は、私たちの仕事もこれで終わりだから」
「はい。……あの」
「何かしら?」
 大概は私の問いにXが答えるという形で話をしていくため、Xの方から話を切り出そうとするのは珍しい。Xはしばしじっと私を見つめたあと、ぽつりと言った。
「お気をつけて。きっと、帰り道は、暗いと思うので」
 もしかして、私のことを、心配しているのだろうか。親切心で言ってくれているのであろうXには悪いが、少しおかしくて、つい笑ってしまった。
「帰りがこのくらいの時間になることは珍しくないわ。大丈夫よ」
 日々の『潜航』はあらかじめ定めた時間通りに行うため、日没前には一通りの手続きを完了し、Xを地下の独房に帰らせるルーティンになっている。しかし、Xを帰した後も我々の仕事は終わらない。データの分析に仕分け、それに報告書の作成など、することには事欠かない。時にはぎりぎり終電を捕まえることだってある――なお、捕まえ損なったことも、無いとは言わない。
 だから、私にとっては「普段通り」。別に心配されるようなことは何もない、そのはずなのだが。
「それでも。……夜道は、危険なものですから」
 気をつけるにこしたことはないのだ、とXは言葉を重ねる。その、いたって真剣な様に、こちらの方が気圧されてしまう。
 Xは嘘も誤魔化しも苦手なら、冗談を言うことだって得意ではない――それが今日まで観察してきたXに対する評価だ。故にこそ、きっと、本心から心配しているのだろう、ということもわかる。
「随分心配してくれるのね」
「夜の闇は、加害の意志がある者を巧妙に隠し、狙われた者の目を塞ぐ。時には『異界』よりも恐ろしい」
 Xの言葉は妙な確信に満ちていた。もしかすると、実際に経験したことがあるのだろうか。夜の闇に目を塞がれたことが、もしくは――。
「 『異界』を知るあなたに言われると、妙な説得力があるわね。……でも、あなたは、夜の闇に助けられた方かしら?」
 Xは、殺人犯だ。しかも、逮捕されるまでに、何人もの人間を手に掛けた程度の。この言葉も、そんな彼の経験則から来たものであるならば……、と思ったのだが。
「いえ」
 と、Xはきっぱりと首を横に振るのだ。
「こうは言いましたが、視界が悪いのはこちら側も同じですから。確実性を損ねるだけですし、現場に証拠を残しても気づけない。リスクの方が多いです」
「……なるほど?」
 Xの言い分はまあ、頭では理解できるが、果たして素直に頷いてよかったのかどうか。殺人犯にレクチャーを受けるという経験など、なかなかできるものではない、とは思うのだが。
「しかし、それはあくまで私個人の話であり、犯罪、特に殺人と性犯罪は夜を好みます。暗がりは、暗がりであるというだけで、人の本来あるべき箍を外すのかもしれません」
 だからこそ、夜道は特に警戒が必要なのだ――と、一気に言い切ってから、Xはほんの少しだけ、眉を下げる。
「すみません、余計な話でしたね」
「いいえ」
 確かに、『潜航』とは何も関係のない話だ、と言われれば否定はできない。しかし、私は、Xのいつにない饒舌さに驚くと共に、普段は言葉少なな彼がここまで言葉を尽くして夜道の危険を語り、こちらを心配しているらしいことに、一種の感心すら覚えていたのだ。
「ありがとう。そうね、今まで以上に気をつけるわ」
 私が言うと、Xはわずかに眉を下げた表情のまま、軽く顎を引いてみせたのだった。
 かくして、Xは刑務官に連れられて地下の独房へと帰ってゆき、私もロッカールームで白衣を脱ぎ、代わりに薄手のコートを羽織って研究所を後にした。
 外はとっくに夜を迎えており、冷えた夜風が頬を撫でる。研究所から最寄り駅までの道は特に暗く、街灯も少ないこともあり、何とも心細い。
 しかし、昨日までは何も感じていなかったはずだ。いつも通りの夜、いつも通りの帰り道。最低限の自衛はしているつもりだったが、何も起こらないのが当たり前だと思っていたことは否定できない。
 そんな保証、何一つないというのに。この静かで冷たい闇の中に何が潜んでいてもおかしくなく、いつ自分が狙われるのかもわからない――。
「そうね」
 口の中で呟きながら、大きく一歩を踏み出す。いつもより幾分早足に歩きながら、Xの言葉を思い出す。
 暗がりは暗がりであるというだけで、人の本来あるべき箍を外す。
 Xは今に至るまでに、どれだけ暗がりを見つめてきたのだろうか。『こちら側』の夜は、遠い昔に比べれば随分明るくなったに違いないが、それでもこの通り、未だに闇は闇としてそこにあるわけで。夜が明るく照らされるようになった分、追いやられた闇はより深くなったのかもしれなかった。
「……確かに、案外『異界』より恐ろしいのかもね」