机上の空、論。

机上の空、論。(5)

【一〇六六年 風の月 三十一日】

 今日もよく晴れている。絶好の飛空日和だ。
 こうやって、航空部室に入り浸っていられるのも、あと半年だと思うとなんとも感慨深いものがある。
 今まで、本当にやりたいことをやりたいようにやってきた。それを後悔してはいないし、これからも後悔することはないだろう。やりたいように、やってこられた。その事実だけでも、幸せなのだから。
 そう、俺は本当に幸せ者だと思う。
 俺のワガママみたいな活動に付き合ってくれて、心から嬉しく思う。
 ヌシは俺のことを何でもできると言ったけれど、それはあくまで手先の話で、心はとんでもなく不器用で。それで、無意識に色んな連中を傷つけてきたんじゃねえかなと思ってる。多分、これからもそうなっちまうんじゃないかなと思ってる。絶対に直していきたいところだけど、どうにもならない部分だってちょっと諦めてすらいる。
 それでも、こんな俺と今まで一緒にいてくれた皆に、感謝を。本当に、感謝してるんだ。こんなこと今更かもしれないけれど、それでも、どうしても伝えたくて。ここに記録しておきたいと思う。
 ……本当に、柄でもねえこと書いちまったな。
 それじゃ、今日はこの辺で。
 明日からもまた、よろしく頼む。
 ――ノーグ・カーティス

(リベル上級学校航空部日誌 一冊目より抜粋)

 

 
 ――第四の地図 「時は満ちる。全ての終わりの鐘が鳴る」

 
 青が頭上に広がっている。
 何よりも大切な色、それでいて一番嫌いな色。
 気づけば、そんな真夏の空の下に、たった一人で立ち尽くしていた。誰か大切な人がすぐ側にいたはずなのに……頭をそっと撫でて、優しい声で語りかけてくれる誰かがいたはずなのに。
 風が吹く。足元の草を巻きあげて、高く、高く。それを掴もうとするかのように、手を伸ばす。
 鳥一羽、船一つ飛ばない空漠の青に、消えていくのは風だけだろうか?
 気づけば青い世界が滲み、頬を流れ落ちる――

 そこで、意識が覚醒する。
 慌てて体を起こして目元を拭う。肩を覆う程度まで伸びた髪が首筋を撫でる感触に、やっと目が覚めたのだと、あれは夢だったのだと認識する。
「あー……最悪だ……」
 頭が痛い。じわじわと締め付けられるような不愉快な痛みに、眉を顰めてしまう。
 部屋は真っ暗で時間を確かめられるようなものもなかったが、カーテンを少しだけ上げてみて、窓の外に浮かぶ星の角度から判断するに、まだ零時も回っていない。
 ……いつも夏になるとこう。決まって、嫌な夢を見る。
 何が起こるわけでもない、不愉快な情景というわけでもない、悪夢というにはあまりにも綺麗な青い空。綺麗過ぎる、青い空。
 そこに届かない、一本の腕。
『俺は、飛べないから』
 飛べないから何だというのだ、そうやって自分に言い訳をして、飛ばないことを選んだのはアンタじゃないか。自分には関係ない、関係ないのだから……空の色を、頭の中に居座らせるのだけは止めて欲しい。
 止めて欲しい、だなんて。
 誰に願っているというのだろう? あの人の言葉一つを引きずっているのは、結局自分自身じゃないか。
「ブルー? 起きてるのか?」
 もそもそ、と奥の寝台の上で布団が動く。部長がこんな時間まで起きているのは珍しい。夜通しの作業をしているならともかく、布団に入ったらすぐに眠れてしまうという特技はどうしたのだろう。
「はい……目が、覚めてしまって」
 視線を向こうの寝台から外し、体を動かして部長に背を向ける形にする。別に、この暗闇だから部長から自分の顔が見えることはないはずだ。けれども……こちらからは見えてしまう以上、部長と目を合わせたくはなかった。それだけの、話。
「明日も早くから動くつもりだからな、寝れるようならさっさと寝た方がいいぞ」
「そのお言葉は部長にそっくりそのままお返しします。いつも布団から引き摺り下ろすこちらの気持ちにもなってください」
「はは、相変わらずかわいくねえなあ、ブルーは」
 言葉ではそう言うけれど、そこに言葉通りの棘はなかった。当然、こっちだって本気で言っているつもりはない……いや、実のところちょっとだけ本気だったけれど。
 そんないつも通りの下らないやり取りを、どれだけ繰り返してきただろう。空に憧れる者同士、偶然同じ部屋になって、成り行きで航空部の一員になって。一年と少しが過ぎ去った今、こうしているのが当たり前な自分が不思議だ。
 ほんの少し前までは、こうやって同じ視線で話せる友達なんて一人もいなかったというのに。
 もぞ、と後ろで部長が動いた気配がした。
「でも、よかったよ。ブルーがいてくれて」
「……どうしたのですか? 突然改まって」
「俺、今までずっと一人で空部やってただろ。実はちょっとだけ不安だったんだ、俺だけがこんなことしてても、何も意味ねえんじゃねえかなって」
 不意打ちとも言える部長の告白に、言葉を返せなくなる。
 いつものん気に笑っていて、何の悩みもないように見えていた部長が、こんな弱気なことを言うのは初めてだったから。
「何を言い出すかと思えば。部長らしくないですね」
 ただ、言いながらも……部長の言葉を意外と思うどころか、納得するような思いだった。
 部長は一年の時にやはり今と同様に廃部寸前の航空部に入り、当時の部長が卒業した際にその後を継いで部長になったという。その頃になると部員は数人まで増えていたはずなのだが、自分が入る頃には、見ての通り部長一人になってしまっていた。
 部長は、歴代の航空部員の中でも、とんでもなく熱心に空を目指す『飛空偏執狂』……『空狂い』で。
 要するに、あまりにも熱心すぎたのだ。
 誰も部長の熱意についていけなくなって、一人が遠慮がちに部室を去り、一人は別の部活に鞍替えして、そうやって残された部長は一人の『空部』であり続けることになってしまった。
 そんな部長はいつも陽気に振舞ってみせるけれど、「実は空部、凄く寂しがってたの」とエルルシア先生は耳打ちしたものだった。
「ああ見えて、意外と繊細なところもあるの。特に、仲間とか友達を何より大切にする奴だから……仲間がいなくなっちゃった、ってのはかなり堪えたと思う」
 だから仲良くしてあげてね、と続けた先生の言葉を、今でもはっきりと覚えている。
 わからなくはない。
 何もかもを捨てることができないで、友達……それは例の「友達」とはまた別人らしいけれど……から借り受けたリボンを、色褪せようが先がほつれようが片時も離さず手首に結び続けるような部長だ。
 そんな部長にとっては、一人でいる時間というのは一番堪えたに違いない。
 それでも部長は空部であり続けた。誰にどのように思われようとも自分の道を貫き続けて、今に至っている。
 その愚直とも言える志を、自分はただ「羨ましい」と思う。
 自分はどう足掻いてもそうなれないから。
 けれど――
「ブルー」
 闇の中に凛と響く、声。
「お前が横にいてくれるだけで、心強いんだ。お前はお前の世界があって、俺とは全然違う場所を見てて、それでも一緒に歩いてくれるから」
「それは、部長の買いかぶりです」
 自分は、そんな大層な人間ではない。大きな力に流されるままに生きてきて、今も自分の取るべき道がさっぱりわからないままに、ふわふわとおぼつかない足取りで歩いている……それこそこの寝台の下で眠る、ひよこのような生き方を送っている。
 それでどうして、自分の世界なんて言えるだろう。
「お前は自分を過小評価しすぎだよ、ブルー。もう少し胸を張って、自慢したっていいんだぜ。お前はそれだけのものを持ってんだからさ」
「……そんなことは……ない、です」
 ことあるごとに、部長はやけにこちらを持ち上げようとする。そういう扱いには慣れていないということもあって、つい体を更に縮めてしまう。心の中に渦巻いていた、今まで落ち着いていてくれたはずの何かが、にわかにざわめき始める。
 それに……一人だけ、今までにも同じようなことを言うような人がいたことを、思い出してしまって。
『お前は、凄いよ』
 その声と、部長の声が重なった気がして。
 青い、青い空の夢が――脳裏に、閃く。
 その瞬間に、自分の中で何かがぷつりと切れた。頭の中が真っ白に焼け付いて、胸の中にずっとわだかまり続けていたものが、声となって喉から飛び出した。
「違います! 何も知らないくせに、部長に何がわかるっていうんですか!」
 言葉を吐き出してしまってから……すぐに、後悔した。
 いつもなら即座に何かしらの反応を示すはずの部長が、返事をしなかったから。息を飲む気配だけが、部屋の中にあって。いたたまれなくなって、布団を頭から被る。
 ――ああ……どうして。
 どうして、こんなこと言ってしまったのだろう。
 違うんだ、言いたかったのはこんなことじゃない。部長は何も悪くないというのに。そう、部長は今まさに自分が言ったとおり何も知らない。知るはずもない。記憶と結びつけて、勝手に苛立っているのは自分自身でしかないというのに。
 部長は何も言わない。
 布団の音すら聞こえない、完全な沈黙が暗闇の中に満ちて。
 その沈黙にどうしても耐えられなくて、布団を被ったまま……
「ごめんなさい」
 口の中で、小さく呟く。
「……ごめんなさい」
 こんな弱々しい謝罪の言葉で、届くとは思わなかった。思わなかったけれど、今の自分にはこれが精一杯だった。ただの言い訳かもしれないけれど。
 これで返事が無かったら、どうすればいいだろう。思っていると、部長はもぞりと動く気配と共に、くぐもった声を立てる。
「知ってるさ」
 ……何を?
「俺にだって、知ってることくらい、あるさ」
 そんな部長の呟きを最後に、今度こそお互いに言葉は絶えて。
 ざわざわと不愉快にざわめく心を抱えたまま、目を閉じて……気づけば、眠りに落ちていた。夢も見ない、深い、深い眠りに。

 
 そして――朝、目を覚ましてみると部長がいなかった。