喜劇『世界の終わり』

01:悲鳴と密室

 扉を叩く、鈍い音が狭い部屋の中に響き渡る。
 そこは真っ白な壁に囲まれた空間だった。分厚い窓にかかるカーテンも、部屋の隅に置かれたベッドも白く、白く塗りつぶされた世界と言われてもおかしくない場所だ。
 そこに、唯一白でない色彩を持った存在があった。
 それは、一人の男だった。髪を振り乱し、傷だらけの手で硬く閉ざされた扉を乱暴に叩き続ける。目は赤く血走り、喉はひゅうひゅうと嫌な音を立てる。白い扉に、ほんの少しだけ赤黒い液体が染み付いているのがわかる。
 それだけ長い時間扉を叩き続けていながら、扉は決して開くことはない。
 そして、決して届かないとわかっていても、割れた喉から声を上げる。
 
「出して、ここから出して!」
 
 それが、彼の第一声。
 実際には扉を叩く彼の手は傷だらけでもなかったし、部屋だって綺麗に整えられた小さな部屋ではあるが、白一色で塗りつぶされているわけではない。ただ、狂乱状態に陥っている彼の必死の形相だけは確かなものだった。
「息苦しくて死にそうだ! お願いします、開けてください!」
「出来ません」
 扉の向こうから聞こえてきたのは、有無を言わせぬ女の声。彼は反射的に息を飲み、扉を叩く手も一瞬止まる。数秒に渡る奇妙な沈黙の後、やっと口を開くことが出来た。
「私が何したっていうんだ!」
 そうは言っているものの、本当は、彼だってわかっている。
 きっと、扉の向こうの女も彼が「わかっている」ことをはっきりと理解しているのだろう、感情が感じられない声でこう言った。
「何した、と聞いてみる前に、現在までにしてきたことを思い返してみたらどうです、秋谷さん」
「私が、今までに、してきたこと……」
 彼、秋谷は口の中が乾くのを感じていた。
 わかっているけれど決して認められない、正確には秋谷が認めたくない事実が突きつけられる。それは、まるで喉元に突きつけられた剣の切っ先のよう。
 そんな詩的なことを考える余裕はあったのか、と秋谷は思わず笑いたくなるが、実際にこの状況でそんな軽口を叩く気にはなれなかった。
 秋谷が黙っていると、扉の向こうの女が、決定的な言葉を放つ。
「わかっていますよね、秋谷さん。〆切、いつでしたっけ?」
「……五日」
 今度こそ、秋谷も、認めないわけにはいかなかった。
 
「 『前』、です」
 
 こうやってホテルに缶詰にされながらでも原稿を上げなくてはいけないという残酷な事実を。
 次の瞬間、秋谷は扉を叩きながら畳み掛けるように叫んでいた。
「私だってわかってる! わかってるからそこを開けてください! このままだと窒息死しちゃいますよ、お願いします加藤さん!」
「駄目です。開けたら絶対逃げるじゃないですか。この前だって二階から飛び降りて逃げたんですから、今回は逃がしませんよ」
「……だから今回は十階なんだな」
 秋谷は扉の外の女、加藤に言われて思わず窓の外を見た。ガラスの向こうに広がるのは、空。地面は秋谷が見る限り、遥か遠くにある。普通に考える限りここから逃げることはできない。ここから逃げる時は、〆切ではなくおそらく人生全てから逃げたいと思った時だろう。
 さすがに今それを実行する気にはなれないが。
「あれだけ前々から言っておいたのに、何故毎回こうなるのでしょうね。待っている私の身にもなってください」
「仕方ないじゃないですか! 私は遅筆なんですっ!」
「嘘ですね。昨日までノートパソコン置いたまま箱根で遊んでいたと奥さんが言っていました」
「シズカの薄情者!」
 口が軽いというよりは絶対わざと密告したのだろう薄情な妻を恨みつつも、秋谷はすごすごと机に戻った。机の上のノートパソコンは、起動してからほんの数行しか進んでいないワープロ画面を映し出している。
「どの位進みました?」
「全然。さっぱり。一時間前から一文字も進まなーい」
 言いながらも、秋谷は何とかキーの上に武骨な指を乗せた。