その頃の僕は十四歳で、塔の兵隊で、ある《種子》を運ぶ旅の途中だった。
ある夜のこと。
《鳥の塔》の父さんに向けた、遠隔音声通信による現況報告の終わりに、突然、高い声が割って入った。
『父さんばかりずるいです、僕にも代わってください』
少し通話口から離れているからだろう。声は遠くから聞こえたけれど、きょうだいの中でも特別明朗な発声は聞き間違えようもない。
通話口の父さんは、いつになく大げさにため息をついて、言った。
『聞こえたか?』
「聞こえた。今のはヒース?」
『ああ。うるさいから代わるぞ』
「わかった」
数拍待った後、すっ、という呼吸の音に続いて、聞きなれた声が聞こえてきた。
『お久しぶりです、ホリィ』
「久しぶり、ヒース」
ヒース・ガーランド。僕の弟。同一遺伝情報の片割れ。「ヘザー」と呼ぶきょうだいや研究員もいるけれど、本人がそう望んだから、僕は「ヒース」と呼ぶことにしている。
僕とは二ヶ月違いの弟だから、年齢は十四歳。でも、聞こえてきた声は僕が首都を出た時から変わっていなかったから、多分、今も中途半端なかたちをしているんだと思う。
『ふふ、ホリィに「久しぶり」なんて言うの、初めてです』
「そういえば、そうかも」
僕とヒースは、きょうだいの中でも特別で、特別だからなのか、塔にいる限りはいつも二人でひとつだった。僕が軍に所属するようになってからも、任務で隔壁の外に出る時に数日塔を離れたくらいで、一週間以上ヒースと会わなかったことはなかったはずだ。
だからと言って、僕とヒースが特別仲がよかったというわけでもない。ヒースは考えることも、見ているものも、僕とは違いすぎて、さっぱり話が合わないから。
……僕とは、というよりも、僕らきょうだいとは、と言い換えてもよいのかもしれない。
ヒースは、とにかく、僕らきょうだいの中では浮いていた。離れてみて、こうやって一つ一つ思い返してみて、やっとそれに思い当たるくらい、普段はそれを当たり前だと思っていたけど。ヒースは、やっぱり、どこか特別なんだと改めて思う。
特別教えられたわけでもないのに、僕らきょうだいや父さんにすら丁寧な言葉遣いで喋る。中途半端なかたちをしているけれど、僕と違って、大人みたいなものの考え方をしている。だからといって、決して従順ではなくて、いつも訓練や実験をサボっては塔の外に逃げ出してしまう。もちろん、その後は父さんや研究員たちにものすごい勢いで叱られているのだけど。
それでも、絶対に懲りないのが、僕には理解できなかった。
今でも塔を抜け出しているのだろうか。塔の外で、僕の知らないものを見ているのだろうか。そんな風に思っていると、ヒースが聞いてきた。
『ホリィは、元気にしていましたか?』
「僕が病気に強いのは、君が一番よく知ってるだろ」
同じ遺伝情報を持っているのだから、僕の先天的特質はヒースと全く一緒だし、そもそも僕らは特別偏った調整をされた一部を除いて、毒や病気には極めて強い。ヒースがそんな当然のことを聞いてくるのが、ちょっとおかしい。
『そういう意味じゃないんですが……』
「そういう意味じゃなければ、どういう意味?」
難しいですねえ、とヒースは苦笑する。ヒースは僕より賢いのだから、僕にわかるように説明するのも、そう難しくはないと思うんだけど。よくわからないな。
「とにかく、病気はしていない。怪我もほとんどしてない」
『あはは、それならよかった』
「ヒースは?」
『…………』
「ヒース?」
何だろう、いやな感じがする。
放っておけばいくらでも喋っているヒースが、僕の質問に答えないことなんて、今まで一度もなかったはずだから。
「……何か、あった?」
『ありました』
「話せる?」
『詳細は、今、僕の口からは語りたくありません』
語りたくない、ということは、語ることそれ自体に問題はないということなのだろう。
『それでも……、ホリィには不要かと思いますが、一つだけお伝えしておきます』
「聞くよ」
ヒースは、ほんの少しだけ間を置いて。
『ガーディ兄さんが、死にました』
そう、言った。
ガーディ兄さん……頭文字G、ガーデニア・ガーランド。僕らから見ると一つ上の兄だ。ただ、僕とヒースが例外なだけで、基本的に僕らきょうだいは疎遠であることが多い。ガーディ兄さんもその一人で、僕自身はほとんど顔を合わせたことが無い。
だから、死んだという事実は寂しく思ったけれど。
「そうなんだ」
結局、僕にとってはその程度の感慨しかなかった。
けれど。
けれど――ヒースは。
「ヒースは、大丈夫?」
『大丈夫じゃないです。でも、どうしようもありません』
だって、と。ヒースは掠れ声で言った。
『だって、彼女を追い詰めたのは、僕だ』
それは、今にも、泣き出しそうな響き。
ヒース、と父さんのいつになく厳しい声が聞こえる。これ以上は言うな、ということなのかもしれないが、そもそもヒースは言われなくともこれ以上語る気がなさそうだった。
ヒースの今の言葉の意味は、僕には理解できない。そして、ヒースも僕が理解していないことくらい、わかっているはずだ。わかっていて、それ以上何も言わないのだから、以降はヒース曰く「語りたくないこと」なのだろう。
僕が黙っていると、ヒースは『ごめんなさい』と小さな声で謝った。
『まだ、僕自身、きちんと話せません』
「わかった。帰ったら、聞くよ。僕に理解できるかはわからないけど」
ヒースの、ガーディ兄さんへの執着も、僕には結局理解できていないままなのだから。
執着。あれが執着だったのかも、わからないままだ。
ヒースは、ガーディ兄さんに恋をしていたのだ、という。
これはヒースが僕にだけ、耳打ちしてくれたことで。実際にはどこかで音声記録が取られていたのかもしれないけれど、一応は、僕とヒースの間だけの秘密だった。
僕は恋を知らない。辞書的な意味は調べればわかる。ただ、その意味を知ったところで、結局それが「何」なのかはさっぱりわからなかったことを、思い出す。僕から見る限りヒースのそれは理由の不明瞭な「執着」で、そういうものを恋と呼ぶものなのか、とヒースの知識に感心した覚えがある。
ヒースによると、一般的にきょうだいに恋をするのは「許されざること」であるらしい。
恋は往々にして生殖欲求と結びつくものであり、きょうだいと生殖行為を行うことは奨励されない。生物学上遺伝情報の近いもの同士での交配は、種の保存の意味でも、生まれてくる個体の形質にとっても、決してよいものではないことは、流石の僕でもわかる。ヒースはそれに加えて倫理的な忌避もあると言っていたけど、何をもって倫理的と判断するのか、その基準までは示してくれなかった。
とにかく、それが誰の目から見ても許されざることであり、また僕らガーランドに求められたことではない、とわかっていても、ヒースは兄さんに恋することをやめなかった。やめられなかった、と言うべきなのかもしれない。
「だって」
あの日、僕に囁いたヒースは、目の前で大きな目を瞬いて笑った。
「ガーディ兄さんのことを考えていると、苦しくて、胸が痛くて、でも、すごく嬉しくなるんです」
ヒースは、塔の別の区画に隔離されたガーディ兄さんのところに、監視の目を盗んで会いに行っていたらしい。ふらりと消えて、帰ってきたヒースはいつも弾む声で兄さんの話をしてくれた。
だから、僕の記憶の中の「ガーディ兄さん」は、ヒースの語った話で出来上がっていると言っても、間違いじゃない。髪を長く伸ばしていて、色がとびきり白くて、僕らよりずっと細い身体をしていて、だけど胸は大きく膨らんでいる。低く掠れた、でも綺麗な声をしているらしくて、名前を呼んでもらえると一日幸せな気分になれる、なんて言ってた。
僕は、そんなヒースの話をいつも聞き流していた。この程度は覚えているけれど、細かいことなんて全然思い出せない。ヒースも僕が聞いてないことを承知で、壁に向かって喋るのと同じやり方で喋ってた。
ただ、ある時、僕は一度だけ聞いてみたのだった。
つまりヒースは、ガーディ兄さんとつがいになりたいのか、と。
そんなこと、できるわけがないでしょう、と。いつもの、諭すような言葉遣いで言ってヒースは笑った。
「でも」
「でも?」
問い返すと、ヒースは短い両腕を天井に向かって伸ばした。そこに、求めるものが……ガーディ兄さんの姿があるかのように。
「触れたい、抱きしめたい、それから、自分の全てを受け入れてもらいたい……って、思うことだけなら、タダですよね」
――結局、納得できる答えが返ってこなかったことは、覚えている。
『ホリィ』
不意に、耳に飛び込んできた声で、ぼうっとしていたことに気づいた。
「ごめん、ぼうっとしてた」
『いいえ。無事、帰ってきてくださいね』
通話口から聞こえてくるヒースの声は、僕の知っているどの声よりも、張り詰めた響きをしていた。
『ホリィまでいなくなるのは、いやです』
僕は、ヒースとはどうにも相容れない。考えていることも、見ているものも、何もかもが違うから。
でも。
「わかった」
それでも、僕にとっては、唯一の片割れで。
「帰るよ。絶対に」
欠けてはならないのだ。お互いに。
ヒースは、ふと、笑ったようだった。音声通信のみでは、ヒースの表情なんてわかるはずもないけれど。あの、どっちつかずの顔で、夢見るように笑う様子が目に浮かぶ。
『ありがとうございます、ホリィ』
「うん。それじゃあ、切るよ」
通信装置の電源に手をかけたところで、突然、ヒースが『ああっ!』と大声で叫んだ。耳が痛い。ただでさえ、よく通る声なんだからその辺は少し気にしてほしい。
「どうしたの」
『そうです、ホリィにお願いしようと思ってたんです!』
「何を」
『おみやげ! せっかく首都の外に出たんですから、とびきりのおみやげを持って帰ってきてください!』
おみやげ。
考えたこともなかった。
そもそも、これは任務で観光旅行というわけでもない。おみやげなんて、買って帰る理由もないはずだ。
『ふふー、おみやげ、おみやげ、楽しみですねー』
でも、僕が何も言ってないのに、もうヒースはもらえる気になっている。調子の外れた歌が、通話口から聞こえてくる。
まあ……、仕方ないな。
「わかった。何かしら、見繕っておくよ」
『わーい! 忘れないでくださいよ、ホリィ、いつも人の話半分くらい聞いてないんですから』
「大丈夫。これは、覚えておく」
ヒースの期待を裏切ると、後が面倒くさい。怖いわけじゃない、純粋に面倒くさいのだ。
ヒースは『えへへ』と嬉しそうな笑いをこぼして、はっきりと言った。
『ありがとうございます! 待ってますから』
「うん。それじゃあ、ヒース」
きっと、無理して明るく振舞っていたのだろう、ヒースの声が通話口から消えて。そして、通信が途絶える。通話機を置いて、何となく息をつく。
おみやげ、か。
……おみやげ。
ヒースは、どんなものを期待しているのだろう。
色々と、ヒースの話は聞いていたけれど、そこからヒースの本当に好きなものを割り出すのは、どうしても僕には難しい。僕には、ヒースのような考え方がそもそも存在しないから。
ああ、そうだ。
ジェイと……、鈴蘭にも、相談してみよう。
鈴蘭は何となくヒースに似てるから、きっと、僕よりはいいアイデアを出してくれる。
――きっと。
アイレクスの絵空事