夢中分解ヘッドトリップ

04:温室

 翌日、電車をいくつか乗り継いで、樋高ヒダカさんがメモで指示した植物園へ。
 城守キモリさんには、外回りをしてくる、とだけ伝えた。普段なら説明をしろ、一人で行動するな、と詰められるところだが、大槻オオツキさんが殺されてから、私が相当参ってるとでも思っているのか、それなりに自由な行動を許してもらっている。大槻さんの殺害現場に何度も立ち寄っているのは、上司のらしくない心遣いあってこそだ。
 一方で、「いたところで捜査の役には立たない」と思われてるであろうこともわかるから、苦々しいのも間違いない。
 樋高さんの誘いに乗ったのも、こんな私でも何かしらの手がかりが得られるかもしれない、という一縷の望みをかけてのことだ。話を聞こうとした城守さんにも甘池アマイケさんにも、樋高さんは何も言わなかった。けれど、樋高さんの考えはわからないが、どうも私には伝えようとする意志があるらしい――なんて。
「けど、アザミさんにだけそう言ったんだろう? しかも、人目をはばかるように。怪しいとは思わないんだ?」
「正直、めちゃくちゃ思ってるよ。あまりにも都合がよすぎる。騙されてるかもしれない」
「でも、行くんだな、アザミさんは」
「そりゃあね。今のところ唯一の手がかりだし」
 大槻さんが死んでから、犯人への手がかりは、何一つなかったのだ。樋高さんが何かを知っているというなら、どんな些細なことでも知りたいと思うのは当然だ。
 それに、もう一つ。
 気になっているのは、樋高さんが「気をつけて」と囁きかけてきたことだ。しかも、妙に真剣な声音で。
 一体何に気をつけろというのだろう。その答えを知るためにも、やはり私はもう一度、樋高さんに会わねばならない。
「何か困ったことが起これば、もちろん、俺も可能な限り手を貸すよ」
「だからサンゴくんには貸すだけの手もないでしょ」
 そりゃそう、と笑ったサンゴくんは、今、背負ったリュックの中にいる。鞄の中のサンゴくんは酷く静かで、ずっしりとした頭一つ分の重みだけが、生首の存在を肩に伝えている。
 ……もしかして、窒息してたりしない?
 つい、そんな心配をしながらも、流石に往来でサンゴくんの無事を確認するわけにもいかないので、植物園に入る。
 ガラス張りの温室は、植物園という言葉通りに、様々な植物で埋め尽くされている。私は草花には全然詳しくないから、立ち並ぶそれらの名前は一目見ただけではさっぱりわからない。普段はお目にかからない姿かたちをしているな、と思う程度で。
 しかし、来たはいいが、樋高さんはどこにいるのだろう。樋高さんのメモは、細かな場所までは指定していなかった。
 あの派手な格好なら一目見ればわかりそうなものだが、視界の中にそれらしい姿は見えない。そもそも、署に来た時と同じ姿をしているとも限らないのだ、と一拍遅れて気づく。しまったな、あの見かけに気を取られていたから、顔立ちの特徴なんて全然覚えていない。化粧もばっちりだったから、それを落とされていたらまるで見分けがつかないかもしれない。
 と、危惧をしてはいるものの、実はそれ以前の問題で、植物園には私以外にほとんど人の姿が見えない。たまに植物園の職員が植物の世話をしている姿がちらほら見えるだけで、客と言えるのは私一人ではないだろうか。
 腕の時計に目をやる。待ち合わせ時間ぴったりのはずなのだが。
 これは、やっぱり、騙されたんだろうか?
 それとも、単に人目に付きづらいところにいるだけなのだろうか。奥へ奥へと足を進めていく。うっそうと茂る木々が、影を落としている。季節とは無関係に暖かく湿った空気が、肌にまとわりつくようだ。
 その時、私の足音以外に別の音が聞こえた気がした。空調や、それによって起こる葉擦れの音でもない。もう一つ、足音。
「……樋高さん?」
 音の聞こえてきた方向に振り向けば、そこには。
「え?」
 ――これは、何?
 何かがわだかまっている。かろうじて、人のシルエットを取ってはいるけれど、全体が極彩色のノイズを纏っていて、何一つとして判然としない。
 錯覚か? 自分の目がおかしいのか? 目を擦ってみるも、ノイズは消えてくれない。それどころか、目に映るそれは一段と濃くなってきて、周囲の風景すらも浸食し始める。
 ただ、一つだけはっきりしているのは。
 ノイズを纏った人影が、手に何かを握っているということだ。
 いや、「何か」なんて言うのはやめよう。ノイズで輪郭も曖昧になってこそいるが、それは、間違いなく、刀だ。人の輪郭から逸脱した細長いシルエット、ノイズの合間に覗く鋼の輝き。
「ちょっと……、銃刀法違反だぞ……?」
 刃渡り六センチどころじゃないんだよね。どう少なく見積もっても七十センチはあるんじゃないか、これ。
 その、銃刀法違反者――年齢も性別も定かではないから、そう呼ぶしかない――は、ノイズまみれの足を踏み出す。こちらに向けて。足音だけは聞こえたが、何を言うでもなく、無言の一歩。ただ、悪寒が止まらない。だって、抜き身の刀を提げた相手が近寄ってくるなら、その目的なんて決まりきってるってものだ。
「アザミさん?」
 くぐもった声が背中から聞こえてくる。サンゴくんの声だ。こんな時に?
「何か、見えてるのか?」
「刀持ったやつ!」
 それだけを返して、踵を返して駆けだす。これでも警察官の端くれ、多少の体術の心得はあるし、もしもの時のために警棒だけは上着の下に控えているが、ガチの得物を持った相手に、たった一人で抵抗するのはそれこそ愚の骨頂だ。
「目がおかしいのか何なのか、はっきり見えない! 何か、ノイズがかかったみたいで……」
 走りながらも、サンゴくんに早口で状況を説明する。すると、かろうじて「ノイズ」というサンゴくんの声が聞こえた。
「アザミさん、それが『犯人』だ」
「え?」
 犯人。それって、大槻さんを殺した犯人ってこと? よく研がれた刀を持った達人であるなら、人間をバラバラにするのなんて難しくない、のか? まさか。人間を解体するのがそう簡単なことでないことは、過去の事例から明らかで――。
「つまり、アザミさんは、犯人を目にしていた。でも、それが正しく認識できていない、なるほどな」
「ちょっと、どういうこと、犯人って」
 勝手に合点しているっぽいサンゴくんに言い返しながらも、犯人と言われてしまってはその顔を拝まねば気が済まない。
 少しだけ速度をゆるめて、振り向いて。
 ノイズまみれの顔が、すぐ、背後にあった。
 振りかざされる刀。竦む足、止まる呼吸、これが振り下ろされたら、私は――?
「目を閉じて、アザミさん」
 サンゴくんは、どうも私の考えと逆のことを言いがちだ。目を逸らしてはならない、ぎりぎりまで諦めてはいけない、そう理性は訴えている。しかし、振りかざされる刀を目にすれば、反射的に閉ざされてしまう瞼。
 そして、
 
     *   *   *
 
「――さん」
 声がする。
「薊ヶ原さん? 大丈夫ですか?」
 これは、誰の声だっけ。サンゴくんの声ではなくて……。
甘池アマイケ、さん?」
 瞼を開いてみれば、そこにいたのは確かに甘池さんだった。そして、一拍遅れて、自分がガラス張りの天井を仰ぐ姿勢になっていることに気づく。つまり、横になっているのだ。
「あれ、私、どうして……」
 さっき、ノイズまみれの人影に斬られた、ような気がしたのだけど、どこにも痛みはないし、手足も問題なく動きそうだ。サンゴくんみたいに、首と胴体が切り離されてるわけではない、ということ。
「起きられます?」
「はい、大丈夫です」
 甘池さんの手を借りて、上体を起こす。寝起きのように頭がぼんやりしているが、痛むという感じではない。そして、辺りを見渡してみても、あの銃刀法違反の影はもはやどこにも見えなかった。斬るのを諦めて去ったのか、それとも、今もなおどこかから私を見ているのか。
 何もかもわからないが、それに加えて。
「甘池さんは、どうしてここに?」
 城守さんにも甘池さんにも、もちろん他の誰にも、今日どこに行くのかは伝えなかったはずだ。これには、甘池さんも苦笑いして言う。
「いやー、城守さんがめちゃくちゃ薊ヶ原さんのこと心配してるんです。薊ヶ原さんから目を離すなってお達しでして。あ、これ、俺が言ったのは内緒ですよ、『薊ヶ原には言うな』ってめちゃくちゃ念押されたんで」
「めちゃくちゃ念を押されたことをすぐ吐いちゃう辺り、ほんと甘池さんらしいですね」
 だってそこまでしてやる義理はないですし、と甘池さんは肩を竦める。常々、甘池さんの恐れ知らずっぷりは尊敬に値すると思っている。
「それにしても、城守さんらしくない過保護さですね」
「まあ、今は一応は勤務時間中ですしね、リーダーとしての責任、っつーか周囲からの圧力やら何やらもあるんでしょ。それに、今は、ついてきてよかったと思ってますよ」
 ――だって、ふと見失ったと思ったら、ここに倒れてたのを見つけたんですから。
 甘池さんは、そう言った。
「……倒れて、た?」
「そう、びっくり。救急車を呼ぶかどうか迷ってるとこで目が覚めてくれたから、ほっとしましたけど。気分、悪くないです? 貧血か何かです?」
 甘池さんの言葉には、「大丈夫です、ご心配おかけしました」と言いながらも曖昧に首を傾げることしかできない。気分は別に悪くないし、体のどこにも痛みはない。ただ、突然意識だけがぷつっと途切れていた、ということ。
 ――どうして?
 目を閉じて、というサンゴくんの声を思い出す。言われたとおりに閉じるつもりはなかったけれど、つい、瞼を閉じてしまったことも。
 あれ、そういえば。
「すみません、私のリュック、見ませんでした?」
 仰向けに横たわってるということは、リュックを背負ってないということだ。意識を失う直前までは、サンゴくんの声が背中から聞こえていたはずなのに。
 すると、甘池さんが「ああ」と背中に手を回し、リュックを差し出してくる。
「うつ伏せに倒れてて苦しそうだったから、仰向けにするときに外したんですよね。お返ししますよ」
「あ、ありがとうございます」
「いやー、このリュック、思ったより重くてびっくりしました」
「あ、あはは」
 まさか生首が入ってるとは思うまい。もちろん本当のことを言うわけにもいかないから、私は、首一つ分の重さのリュックを受け取りつつ、愛想笑いを返すことしかできなかったのだった。
 
 結局――この日、植物園に樋高さんが現れることはなかった。