はらわたの散歩者たち

幻影のほのお

『ハー・マジェスティ・シアター』にはいくつもの幽霊話がある。そのどれもが歴史のある建造物にはありがちなものであって、他の劇団員と同じように、アイリーンも話半分としか思っていなかった。
 しかし、ある日突然、舞台の上で団員のひとりが腰を抜かして言ったのだった。
「炎が燃えている」
 ――と。
 もちろん、その場に火の気などあるはずもなく、腰を抜かした団員も、瞬き一つの後には我に返って、はて、自分が見たものは一体何だったのかと首を傾げる始末。
 炎が燃えている。
 それが一度きりであれば、ただの見間違い、もしくは疲れから来た幻視か何かだと断じてしまうことができたはずなのだが、その団員の件から少し経った頃に、劇場の警備員や裏方などの間でも「炎を見た」という者がちらほらと現れたのであった。人によっては、炎を見ただけではなく、視界にのたくる何かが見えた、という者までいた。
 やがて、それは一つの幽霊話と結びつくこととなる。
 昔、ジェームズ・モーリーという役者が舞台上の仕掛けが引き起こした不幸な事故で焼死したとされる。その亡霊が己の炎の記憶を今もなおこの舞台の上に焼き付けているのだと。自分が味わった光景を見せつけようとしているのだと。
 アイリーンはその言葉を丸々信じたわけではない……、けれど。同じ光景が繰り返されることには、不気味さを感じずにはいられなかった。
 それでも、内心にちらつく弱気を飲み込んで、今日もアイリーンは舞台の上に立つ。
 アイリーンの目には炎は見えない。ただ、スポットライトの明かりがアイリーンを焼き尽くさんばかりに照らし出す。その熱を帯びた光を浴びて、アイリーンは胸を張る。
 幻の炎など恐れることはない。遠い日の亡霊など恐れることはない。今はただ、この熱の中で、自分に与えられた役を全うするだけ。


 これは、アイリーン・サイムズがとある男と出会う、少し前のお話。