はらわたの散歩者たち

はじまり

「賭けをしないか」
 ――声が、降ってくる。
「賭けに乗るなら、お前に機会を与える」
 聞きなれた声。いつも聞いていたはずの声。今となっては、どうしようもなく遠くなってしまった、君の声。
「お前がここから生き延びて、あの方に一矢報いることが出来ればお前の勝ち。そういう賭けだ」
 随分と分の悪い賭けだ、という言葉は、果たして声になっていただろうか。
 わからなかったけれど、君には通じたのだと思う。続けて、いつもの君らしい淡々とした声が浴びせかけられる。
「賭けに乗らないなら、勝つも負けるもない。お前はここで死ぬ」
 そうだな。
 それだけははっきりとしていた。
 とうに熱も痛みも通り越して、ただただ、今にも消えうせてしまいそうな意識の中で、声だけが聞こえてくる。きっと俺を見下ろしているのだろう、君の姿も、見えない。思ったよりも数段楽に死ねそうなのは、……よかった、と言っていいものだろうか。
 ああ、けれど、そうだな。
 死ぬ前に、一つだけ君に聞いておきたかった。
 どうして、君が、そんなことを言い出したのか。
 確かに君の提案は、今の俺にとって極めて分の悪い賭けだ。だが、それ以前の問題として「賭け」として成立していない。俺が負けても、特に君は得をしないはずだ。そして、万が一にでも俺が勝ってしまった場合、君は損しかしないのではないか、と。
 俺の声にならない声を、それでも君は確かに聞き届けてくれたらしい。その上で、君はほんの少しだけの苦笑の気配を交えて、こう問いかけてくるのだ。
「わからないか?」
 ……わからないわけではない。
 君という人間がどういう立場にあるのかは、共に居た時間の分だけ知っている。もちろん、その全てを理解していたわけではないから、今こうして、君の手によって死の縁に立たされているわけだが。
 ただ、そう、俺と君に明らかな違いがあったとすれば。
「お前はあの方に剣を抜いた。……それは、自分にはできないことだ」
 確かにそれは、どうしたって君にはできないことだ。
 だから、「俺がやるべきであった」。
 とはいえ、俺は愚かで、俺が剣を抜くことだってあいつには筒抜けで、だから、結局こうなってしまった。大切な人ひとり守ることもできずに、必要以上の人を殺し、必要以上の人を悲しませて、そのまま、責任の一つも果たさずに犬死にしようとしている。
「それはお前の責任ではない。あの方は独りであり、あの方を止められる人間はいない。それだけの話と言ってしまえばそれまでだ」
 知っている。君はそう言うだろう。
 けれど、これはどこまでも俺の責任だ。
 あいつに剣を捧げると決めた、俺の責任だ。
「そう、お前はそう言うだろう。だからこそ、お前にしか託せない」
 僅かに。ほんの僅かに感情の滲む声。それは君らしくもない、だからこその切実な響きを交えた、声。
「もう一度言う。賭けをしないか、ランディ」
 それが、身を焼く炎よりも痛みと苦しみを伴うものであろうとも。
 ……これは、お前にしかできないことだから、と、君は言う。
 あえて問わずとも、答えなど決まりきっていると、君はとっくにわかっているのだろうけれど、これは一つの儀式のようなものなのだろう。お互いの立ち位置を確かめるための、手続き。
 そうだ。もう一度。もう一度が許されるならば。どれだけの苦痛と苦難を伴おうとも、俺は手を伸ばすことをやめないと誓ったのだ。たとえ現実に伸ばすための手を失おうとも。
 今の「俺」が「俺」である限りは、諦めるわけにはいかないのだ。
「その賭けに、乗ろう」
 今度こそ、自分の声が、聞こえた気がした。
「機会をよこせ。こんなところで死んでやるものか」
 そうだ、死んでいる場合ではない。地を這おうが、泥水を啜ろうが、生きて、生きて、生き抜いて、それから。
「俺が、あいつの目を、覚まさせてやる」
 それが、俺の。あいつの剣であると誓った俺の、責任なのだ。
 かくして、もはや俺からは姿も見えない君は、ほんの少しだけ……、笑った、ような気がした。
 
 
「ああ、お前が、あの方の友でよかった」
 
 
 今となっては、そのやり取りが現実のものであったかも、定かではない。
 ただ、俺は、生きている。
 どのような形であれ、今、生きて、ここにいる。
 それだけは確かなことだったから――、
 
 まだ、「俺たち」の賭けは、終わっていない。