『異端』の定義は、時代によって微妙に異なる。
基本的には「世界樹がもたらす魔法に基づかない機巧技術や、女神の教えに反する思想・知識」のことであり、古くは魔力を用いた魔道機関ですら異端であると排斥された。それも既に数百年も昔のことになるが……レベンタートの妖精使いはそんなことを考えながら、ランタンに灯った魔力の明かりだけを頼りに今にも崩れそうな階段を下っていく。
「足元気をつけてよね、落ちたら末代まで笑ってやるから」
「わかってるっつの。ちと黙ってろお前は」
耳元でぎゃいぎゃい騒ぐ、彼にしか見えない相棒の『風』に厄介そうな視線を向ける。とは言っても契約関係というわけでもないはぐれ妖精の『風』は妖精使いの言葉など聞き届けようともせずに、一人で喋り続けている。とりあえず彼女は無視しておこうと決めた。
先導するドワーフの異端研究者は、別段彼と妖精の会話には口を差し挟もうとはしなかったが、不意に「しかし物好きな奴もいるもんだ」と振り向き髭面をにやりと笑みにする。
「女神さんが寛容になったからといって異端は異端、『影追い』に追われても知らんぞ」
「別にいいだろ。知りたいって思うことに罪はねえ。別に女神に迷惑かけるつもりもねえんだしさ」
「まさしく異端研究者の言い分だな。お前さん、若いのに道を踏み外すんじゃないぞ」
「はは、踏み外してる真っ最中かもな」
そこに、研究者には聞こえないとわかっていても『風』が茶々を入れる。
「既に全力で踏み外して気づいたら逆方向だったりしてね」
妖精使いは、異端研究者ではないが異端も否定しない。それどころか女神の教えよりよっぽど異端の知識の方が共感できるとも思っている。とはいえ女神が創りたもうたこの楽園では異端であるというだけで追われることになる。故に、普段は公言することを控え異端には興味ないというポーズを作っている。
それが、上手い世渡りというものである。きっと。
だが、今回ばかりは妖精使い自ら異端研究者の下に赴き、彼が秘密裏に保管しているとある装置を見せてもらいたいと申し出たのだ。何も、特別な事情があったわけではない。ただ風の噂に聞いた装置を、一目見てみたかったのだ。
「で、この先にあるのか?」
「ああ、ちょいと待て」
階段が途絶え、巨大な金属の扉が青白い光に照らし出される。研究者はそれをゆっくりと開いてみせる。
その瞬間、耳に飛び込んできたのは歯車が回る音色。扉を開いたことでどこかの機巧が動いたのだろう、途端、部屋が仄かな魔法の明かりに照らし出される。
「わ、これ何? でっかーい」
『風』が驚きの声を上げる。妖精使いにも一瞬巨大な輪が組み合わさって出来た球体が「何」であるのかはわからなかったが……ゆっくりと歯車で動くそれを見ているうちに理解した。
「天球儀だ」
「てんきゅうぎ?」
『風』の問い返す声は研究者には聞こえない。ただ、妖精使いの言葉を聞いて研究者が小さな目を驚きに丸く見開いた。
「お前さん、知っているのか」
「まあ、一応な。アーミラリ・スフィア……輪で星の運行を表すもんだろ。天球上の見かけの星の動きを再現するための装置、だが」
その天球儀は、まさしく機巧仕掛けだった。足元の板には無数の歯車が組み合わさっていて、文字盤が今日の日付と時刻を指し、星の位置や高度を細かく示している。どうやら時計と天体観測機器としての機能も兼ね備えているらしいと妖精使いは思い小さく唸る。
「こんな精巧なもんを造れる奴なんて、楽園にはいねえはずだ。発掘されたもんか?」
楽園に本来機巧は存在しない……と「言われている」。だが、女神降臨以前には機巧による文明が存在したのだと異端研究者は主張し、実際無数の機巧が発掘されている。これもその一つなのかと妖精使いは思ったのだが。
「元になった機巧はあるかもしれんが、これは魔力を動力としている。驚くべきことに、これはつい三百年前ほど前に造られたものなのだ」
「三百年っつーと、ちょうど大戦と魔女騒乱辺りか……確かに当時はとんでもない研究者がいっぱいいたって聞くが」
三百年ほど前は女神の加護が一番衰えた時代とされている。女神を信じぬ者は機巧を用いて楽園に長き争いをもたらした。ただ、その結果として数々の分野で天才的な研究者が現れ、魔道機関という新たな技術が誕生したことも否定はできない。飛空艇を造った『飛空偏執狂』シェル・B・ウェイヴもちょうどその時代の人間だ。
「……とすると、そういう研究者どもが集まってこいつを造ったってえわけか」
「いや。記録によれば、この天球儀を造ったのは一人の異端研究者だ」
「たった一人で? こんなデカブツをか」
「ああ。我々異端研究者は『彼女』の名を取ってこう呼んでおる」
ふと、研究者は何処か遠いものを見るような目をして、言葉を落とす。
「 『アルクエル・アーミラリ』と」
アルクエル・アーミラリ。
その響きを確かめるように、妖精使いは口の中で呟く。
「アルクエル、ってもしかして」
『風』の言葉に、妖精使いは頷きと共に答えた。
「アルクエル夫人……『鋼鉄狂』フィーネ・ルーティ・アルクエルだ」
アルクエル夫人。数百年前に存在したとされる、命令魔法の専門家にして天才的な異端研究者の女性。『鋼鉄狂』とも呼ばれていたシェル・B・ウェイヴの流れを汲み、初歩的な機巧と魔法を融合させた魔道機関の基礎を創りあげたとされているが、その実体はまるで知られていない。生没年も定かではない、ほとんど伝説と言ってもいい存在だ。
けれど、妖精使いはこの場に来て確信した。
彼女は確かにあの日の楽園に存在して……自らの命が尽きるまで、これを造り続けていたのだ。心の示すままに星を見上げ続けた彼女らしい「作品」。
仄かな明かりの中で歯車が回る。星が動く。この空全てを暴き出す、絡繰仕掛けの天球儀。だがそれは単に見かけの空に過ぎない。本当に彼女が求めたのはそれよりもずっと先、本物の星空だと妖精使いは知っている。
「これが、あの子の『願い』かあ……でっかいな。でっかすぎるよ」
ぽつり、空気の中に溶けた『風』の言葉に、胸が締め付けられる。
彼女はもう何処にもいない、この機巧が作られた意味を理解する者も絶えてしまった。
煌く無数の星、巡る月と太陽。彼女が目指した場所ははるかに遠く、遠すぎて……それでも。
「でかすぎてもいつかは叶う願いだ。かつては確かに届いたんだから」
誰がそれを担うのかはわからないけれど、絶対に届くと信じている。
主を失った天球儀を見上げたまま、妖精使いははっきりと言葉にした。
「あの、星の海に」
レベンタートの妖精使い