志郎が声をかけると、雨傘を手にしていたリッカが「うん」と頷く。
「いつ見ても綺麗だな、って思って」
リッカの前には、白い薔薇の花が咲いている。そして、長い黒髪の一部を纏めた飾りも、また薔薇の花であったことを思い出す。友人を思い出す、という薔薇の花飾りは、モノクロームの世界に映える、柔らかな紅をしている。
「でも、ここの薔薇は、白ばかりなのね」
「家主の趣味でな。赤も黄色も好きだが、白薔薇が一番好きらしい」
だけど――そう呟いた、薔薇を見つめる細長い影が、志郎の記憶に蘇る。この景色に最後まで溶け込むことのなかった家主。志郎の記憶の中で、彼は、雨の季節になるといつも、リッカと同じように薔薇の花の前に立ち尽くしていた。途方に暮れたように。道に迷った子供のように。
「だけど、青い薔薇が一番好きだ、とも言ってたな」
「青い、薔薇?」
「この世界では、決して咲かない色なんだ。組成からして青の色素を持たないとか」
つい最近、ある企業が青い薔薇を咲かせたと話題になったようだが、新聞の写真で見たそれは、青というにはあまりに褪せた、頼りない色をしていた。
一緒に新聞を覗き込んでいたクメイに至っては「紫の薔薇の人が携えていた方が似合うな」などとほざいていた。『ガラスの仮面』なんて、一体どこで覚えたのだろうか。
そして、家主も。そのお世辞にも青とは言えない薔薇を、遠い目で見つめていたはずだ。
「家主も、君と同じで、いくつかの世界を渡り歩いたことがあったようでね。ここではないどこかで、青い薔薇を見たことがあったらしい。海のように広がる、青い薔薇の花畑。その景色が目に焼きついて離れないそうだ」
視界一面を覆う、花の青。それが本当に存在するのであれば、目にしてみたいとは思う。あまりに現実離れした話だとは、思うけれど……。
「わたしも」
不意に、雨の音の中に、声が生まれた。
見れば、リッカが真っ直ぐに、志郎を見つめていた。それこそ、晴れた日の海を思わせる、透き通った青の瞳で。
「わたしも、知ってるよ。海のような、
「……本当に、あるのか」
「それが本当にそこにあったのか、わたしにだけ見えた幻なのかは、今でもわからないの。ただ、悲しいほどに青かったことだけは、覚えてる。それと」
その時、握っていた手が、とても、温かかったこと。
そう呟いたリッカの指が、きゅっと握られる。
「わたし、薔薇の花が好きよ。でもきっと、それはただ綺麗だからじゃない。大切な人と一緒に見た、って記憶と結びついているからだと思う」
記憶。それは、過去の記憶を持たない志郎にとって、どうしてもあやふやなものでしかない。誰かと一緒に花を眺めた記憶もなければ、そもそも、手の温度を感じられるほどに近しい人の記憶だってない。
それでも――それでも。
「なあ、リッカ」
「何?」
「僕も、そう思える時が来るだろうか」
「わたしは、来ると思ってる。今だって、ほら」
ああ、なるほど。
リッカの言葉は、ずっと欠けていた場所に、すとん、と収まった気がした。いつか、また、失われてしまうかもしれないけれど。
今、ここにいること。こうして、何でもない時間を、誰かと過ごしていること。そして、リッカの濡れた指先が、志郎の手を包んでいること。
その全てを感じながら、薔薇の白さを目に焼き付けて、瞼を伏せる。
「……ありがとう、リッカ」