いつになく憂鬱な心持ちだが、これからは毎日こんなものだろう、と檜山志郎は布団の中で考える。昨夜、仕事中に流していたラジオは、無責任にも入梅を宣言していたから。
本当はもう少し眠っていたいが、そうも言っていられない。無理やり重たい頭を起こし、作務衣に着替えて部屋の外へ。冷たい水で顔を洗って伸びかけていた髭を剃った辺りで、やっと意識が覚醒してきた。
鏡の中に映る、いつになっても見慣れない顔を意味もなく眺めていたその時、戸を叩く音が響いた。
いつものことながら、時間ぴったりだ。下駄をつっかけて、玄関の戸を開ける。
「ヒヤマさん、お手紙です」
そこには知った顔が立っていた。手紙の束を手にした、白髪の郵便屋。この雨の中でも傘一つ差さず、それでいて身体も手紙も濡れていないのがなんとも羨ましい。志郎の目で見ればわかる、郵便屋の本体は、一つ歪曲を隔てた世界に立っている。その姿だけを、この場に投影しながら。
そんなことをつらつらと考えていると、少しだけ位相をずらして実体を持った手紙が、志郎の手に移る。慌てて濡れないように懐に突っ込み、四角い瞳を持つ郵便屋に小さく頭を下げる。
「ありがとう。こんな雨の日まで、ご苦労さま」
「いえいえ、仕事ですから。それでは」
郵便屋は踵を返し、白い毛をもつ獣に変じて藪の中に消えていった。それを見るともなしに見送って、部屋に戻って手紙を一つずつ開く。
手紙のほとんどは、外で見かけられた歪神についての報告書だった。これが志郎の仕事ゆえ、当然といえば当然なのだが。それらはどうせ後で纏めるのだから、と流し読みに留める。
だが、一つだけ。珍しい差出人からの手紙があった。
風海霧亜、風海の姫からだ。
あの筆不精が手紙とは、天変地異の前触れではないかと思う。とにかく、封を切って中身を確認する。
時候の挨拶もそこそこに、用件のみが書かれた短い手紙だ。だが、その簡潔極まりない用件が、志郎には、一読では理解できなかった。
「……あいつは、僕に何をさせたいんだ?」
思わず呟いてしまったとき。
戸を叩く小さな音が、聞こえた。
はっ、と手紙から顔を上げ、部屋から顔を出して戸をうかがう。曇り硝子の向こうには、ほっそりとした影が、傘を負って立っているのがわかる。
「はい」
微かな緊張を篭めて、返事をする。すると、
「すみません」
声が、聞こえた。
静かな、しかし澄んだ硝子のように凛と響く、女の声。
「カザミ・キリアさんの紹介で参りました。こちらが、コバヤシさんのおうちでよろしいでしょうか」
「あ、ああ。すぐ出る」
脱いだばかりの下駄をもう一度履きなおして、慌てて戸を開く。
そこに立っていたのは、確かに女だった。西洋人形のように真っ白な肌をした、志郎よりも十は若い女が、レースのついた傘を傾げて小さく一礼する。
そして、顔を上げた女の目が、志郎を真っ直ぐに見据えた。
深い、深い、海の色を閉じ込めた、青い瞳。
その瞳から目を逸らせないままに、志郎の頭の中には、手紙に書かれていた一節が蘇っていた。
『ある